teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]

スレッド一覧

  1. 下目黒の恐怖の精神虐待魔について語るスレ(1)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


国会で一番論じなければいけないのは

 投稿者:自適  投稿日:2017年 3月31日(金)10時38分32秒
  林英臣の元氣メール第992号「国会で一番論じなければいけないのは…」
http://archives.mag2.com/0000149323/index.html

◆国会で一番論じなければいけないのは…◆

崩壊の原因というものは、たいてい内と外にある。それまで栄えていた体制が
滅びるとき、内が腐敗堕落して統一力を弱めているところへ、外から大きな圧力
が掛かって、あっけなく滅亡してしまうのだ。

崩壊寸前の大木と一緒で、内が弱っているだけでは、まだ倒れない。内部が
かなり腐ってきており、そこへ暴風が吹いたときに音を立てて倒壊するので
ある。

かつて3200年前の文明交代期に、それまで繁栄していたヒッタイトや
ミケーネが同時に滅びた歴史がある。文明自体が繁栄によって弱体化しており、
そこへ外から気象異変が襲いかかって「あっけない幕切れ」を迎えた。寒冷化と
多雨、それに伴う食糧不足が、周辺の異民族の侵略を招いて滅び去ったのだ。

文明というものは次第に複雑化し、人も社会も野性的な活力を失って、すっかり
軟弱化していく。とうとう繁栄の頂点に達したとき、その軟弱化が崩壊の要因と
なって消滅するのである。

21世紀の今、水も空気も土も汚れ、環境汚染は益々悪化し、動植物の種の消滅
が絶えない。人為であろうがなかろうが温暖化は進み、その一方で寒冷化して
氷河期に向かうという予測もある。

人口増と食生活の向上によって、いずれ食糧不足が発生する可能性が高まって
いる。なのに、沢山の食べ物を捨てて平気でいる。公益を忘れた経済活動は膨張
する以外に哲学を持たず、奪い合いと騙し合いによって人は不幸になるばかり
だ。

世界情勢に目をやれば、衰亡するヨーロッパに中東・北アフリカからの民族移動
が発生し、衰退するアメリカは一国主義・保護主義に走り、台頭するチャイナは
膨張を加速化させ、核を振りかざす北朝鮮は東アジア混乱の引き金と化し、中東
は世界大乱の震源地となっている。アメリカと並ぶ核大量保有国であるロシアの
動向からも目を離せない。まるで世界は、刻々と終末戦争へ向かっているのかの
ようである。

国会で一番論じなければいけないのは、いかにして日本を変え世界を救うかだ。
地方議会にあっても、近未来に起こり得る現代文明の崩壊に対して、地方がどう
市民を救うかについて協議しなければならない。政治に、人類を救うための
啓蒙力が無さ過ぎる。

21世紀は、800年毎にやって来る“今回の”文明交代期だ。その最も暴風雨
が吹き荒れるのは、2025年から2050頃と予測されている。

今こそ人類の衆知を集め、内を充実させ、外に立ち向かうことでこの大転換期を
乗り越え、地球文明を一大進化させようではないか! 超思想家、超志士、
超政治家、超経済人、超教育者らが出るときであるが、自分に出来ることは、
ちょっと探せばいくらでも見つかるはずだ。

◆外交の心得◆

1「大局を観よ!」
同レベルで相対しているだけでは、なかなか埒が開かない。相手よりも一段高い
ところに立って、全体を大呼吸してみよう。持久戦になるほど、大局に立って
いる方が議論を優位に進めていくことになる。相手国以外の国々を同時観察する
のも大局観であり、局地戦に囚われないよう、世界を一つの将棋盤や碁盤と見なし
て鳥瞰すればいい。

2「核心を掴め!」
全体を眺められたら、今度は深いところに潜んでいる問題の根っ子や、カギを
握っているキーパーソンを見つけよう。それらは、ここを押せば治るという
ツボ所となる。

3「心理戦に備えよ!」
外交は人間が行うものであり、人間は心の動物だ。常に相手の心を読み取ろうと
する努力を怠ってはならない。あらかじめ相手国の歴史や文化を学び、現状に
おける強み(長所)と弱点も知っておこう。相手には必ず困っている事や悩んで
いる事があるものだ。

そして、指導者の性格やクセ、その価値観と信念、大切にしている事、さらに
今後の狙いや欲している事なども察しておきたい。

あとは人物だ。知恵と胆力、大誠意のある人物が、どうしても必要なり。

 
 

極めて大事な時代~我々は文明維新を迎えている

 投稿者:自適  投稿日:2017年 1月12日(木)12時34分52秒
  ◆極めて大事な時代~我々は文明維新を迎えている◆

「世界の変化」が加速している。文明レベルでは、アメリカの衰退、
ヨーロッパの混迷、中東の混乱、アジアの不安定化が益々顕著となる。
もしもどこかで「既存の経済システム」が崩壊すれば、生活に困窮した
人々が難民化し、民族大移動が欧州ばかりでなく全世界的に発生すること
にもなるだろう。

間もなくアメリカ大統領に就任するトランプ氏は、この動揺に満ちた文明交代期
の申し子となるのかも知れない。「世界の変化」を加速させる引き金役だ。

トランプ氏に政治イデオロギーは無い。自由主義や民主主義といった西欧流の
価値観に信念を置かず、アメリカ第一主義、ビジネス第一主義、大衆迎合主義
(ポピュリズム)を基本としている。いわゆる哲学が希薄な分、恐いもの無し
である。

経済格差の広がり。これがアメリカの社会的病理となっている。かつては中間層
に属していたものの、ずるずる貧困化した白人層が増えた。不満を持った彼らの
支持があって、トランプ氏は大統領に当選したのである。

トランプ氏は、アメリカを救うと叫びながら打ち出した公約を、本当に実行
出来るのだろうか。公約に財源計画の裏打ちが無いと指摘されているが、公約が
果たせないとなれば一気に支持を失う可能性がある。

トランプ氏は、減税(連邦法人税や個人所得税)とインフラ投資でアメリカ経済
を立て直すと言う。しかし、収入(税収)を減らして支出(投資)を増やせば
当然赤字がたまる。アメリカ財政は急激に悪化しかねない。保護主義や移民排斥
も、経済活動を硬直化させる要因となって経済活動を冷やしてしまうのでない
か。

そうして、アメリカ経済の動揺が世界経済に深刻な打撃を与える。その結果、
膨張しなければ維持出来ないという「既存の経済システム」が終焉へ向かう。
極めて悲観論ではあるが、それが「世界の変化」のシナリオになってきたよう
にも思われる。

中国はどうか。トランプ氏は外交にも経済にも対中強硬路線を敷き、台湾を重視
する一方、中国を「為替操作国」に認定して中国製品の輸入関税を45%に上げ
るという。周近平はトランプ氏の言動に右往左往し、その挑発的な発言に戸惑い
を隠せない。米中があからさまに対立し、今後の世界経済の悪化を受けて中国
国内が混乱すれば、不満を外へ逸らそうとして、東支那海や南支那海での米中
衝突に飛び火することもあり得るだろう。

また、ヨーロッパでも保護主義・移民排斥が強まりそうだ。3月のオランダ
総選挙、4月か5月のフランス大統領選挙、秋のドイツ連邦議会選挙。これらの
選挙によって、今後のEUの動向が占えると思われる。下手をすれば、EUは
解体の危機を迎えるかも知れない。

すなわち世界は、文明交代期という台風に襲われているのだ。しかも間もなく
“暴風域”に入ろうとしている。日本人は、この現実を直視しなければなら
ない。従来の政治の延長線上に未来は無いと覚悟し、文明の転換に耐えられる
国家を興すことに使命を定めようではないか。

我々は文明維新を迎えている。まさに幕藩体制のままでは近代日本を誕生させ
られないことに気付いた若者たちが立ち上がって、維新回天の大業を成し遂げた
ときのような、極めて重要な時代に入っているのである。

☆転送・転載・引用など(悪意・乱用でない限り)大歓迎です。出所(林英臣の
元氣メール)を必ず明記して下さい。あらかじめ当方にご一報下されば嬉しく思
います。
林 英臣 e-mail        :soukan@hayashi-hideomi.com
林 英臣 ホームページアドレス :http://www.hayashi-hideomi.com/
 

DNAの違いではなく

 投稿者:自適  投稿日:2016年 7月31日(日)16時00分28秒
  DNAの違いではなく、細胞質遺伝による機能発現システムの違いに依存する進化
http://www.seibutsushi.net/blog/2016/06/3836.html

カンブリア大爆発などの大進化は、DNAの進化(新たしい遺伝子の獲得)によるものであるとする説は、ただのDNA信仰に過ぎず、まったく事実に反する。カンブリアの生物のDNAは、カンブリア大爆発の数億年も前にほぼ完成している。

これと同じような誤解が、チンパンジーと人間の遺伝子は2%しか違わない、この2%が進化の原因であるという考え方である。これは、同じ人間でも、遺伝の際のコピーミスからもっと高い比率で差異が出ることから、たとえ、人間の遺伝子をチンパンジーの遺伝子と同様に書き換えても、人間はチンパンジーにならないという説もある。

それでは何が種を決定しているのか?

例えば、人間とチンパンジーの違いの主要なものは幼形成熟(ネオテニー)に起因している。これは、チンパンジーの子供の状態のまま人間は成熟することで、人間はサルに比べて性成熟が遅く柔軟な子供時代が長くなることを指す。

これにより、柔軟性にとみ、好奇心に満ちた探索行動が死ぬまで続き、置かれた自然外圧や同類外圧に適応するため、生後も脳機能が進化するという人間特有の適応方法を獲得できた。

この機能は、DNAや遺伝子そのものにあるのではなく、遺伝子に刻まれた機能を発現するタイミングに左右される。ほとんどチンパンジーと変わらない遺伝子をもつ人間では、脳部分の遺伝子を発現させるスイッチがチンパンジーより遅れるという傾向が強いという事実が分かってきている。

そして、その機能発現システムを担っている物質のひとつは、クロマチンといわれるDNAを巻きつける糸巻き状のタンパク質であることも分かっている。

このタンパク質はストレスを受けると、機能発現しやすい状態(糸巻きが緩む)に変化し、子孫に遺伝する。またこれは、精子や卵子の構成要素で、DNA以外の遺伝であることから、獲得形質は遺伝するということになる。

つまり、進化は、DNAの違いではなく、細胞質遺伝による機能発現システムの違いに依存する。これは、全世界のオサムシの遺伝子による系統分類と、形態による分類にまったく相関関係が無いことなどからも裏付けられる。

以下引用
『親の受けたストレスは、DNA配列の変化を伴わずに子供に遺伝』(リンク)

/////////////////////////////////////////////////////////////////

-ストレスが影響する非メンデル遺伝学のメカニズムを世界で初めて発見-

これらが、熱ストレスや浸透圧ストレスでdATF-2がリン酸化されると、ヘテロクロマチンから外れ、その結果、ヘテロクロマチン構造が弛緩し、抑制されていた転写が誘導されること、その状態が子供に遺伝することを突き止めました。

親の世代だけが熱ストレスを受けると、その影響は子供にだけ遺伝し、孫には遺伝しなかった(緑囲み)。しかし、二世代にわたって熱ショックストレスを受けると、その影響は子供だけでなく孫にも伝わることが分かった(黄囲み)。その影響はストレスが無くなった後も、何世代にもわたって遺伝する可能性がある(黄第5世代)。
 

万物に意識がある ~植物の“意識”~

 投稿者:自適  投稿日:2016年 7月31日(日)15時52分4秒
  万物に意識がある ~植物の“意識”~

http://www.seibutsushi.net/blog/2016/07/3852.html

人間をはじめ、動物に意識があるのと同様に、植物も意識を持っていることが実験で確認されています。

見た目にはわからなくとも、おかれた環境(外圧状況)や周囲の存在の意識(心)を敏感に察知して、反応しているようです。

ギョ焚く 8 クオンタム_ヒーリングとは?
<わたしんちの医学革命と雑多な情報>より

       ~前略~
    2. 万物に意識がある

    チョプラがいうまでもなく、私たちは意識というものをとかく軽視しがちです。
    これについて、「物質文明にどっぷり浸かり、モノとカネを追い求めて忘我の日々を送る現代人は、潜在意識が正常なものではなくなっている」といって、警鐘を鳴らす心理学者や人類学者がいます。

    これらの学者は、「物欲が刺激されるのは、五感が活発すぎるせいである。
    感覚器官からの情報ばかりが意識に入り、意識がそれに振り回される状態が続くと、正常な神経がマヒするようになる。
    人間関係の軋轢や、自然や生き物に対する配慮、思いやりが薄らいでくるのもそれが原因だ」と、警告さえ発しているのです。
    そういわれてみれば、この情報過多の現代社会のなかにあって、私たちの意識は、外部の世界に向きっ放しになっているような気がしないでもありません。
    それより内面の世界、つまり心というものにもっと意識を向けることが必要なのかもしれません。

    じつはそのことを明らかに示唆する、驚天動地の事実があったのです。
    人間や動物に意識があるのは当たり前ですが、なんと植物や鉱物にも意識、いや意識というよりもっと単刀直入に、心があるということが、実験によって証明されたのです。
    さらにもっと驚くべきことに、植物は人間さえ知ることができない、宇宙の神秘にかんする情報まで知っていることが実証されました。

    植物の意識についての研究の端緒を開いたのは、ポリグラフ(うそ発見器)の専門家で、CIAの尋問官であったクリープ・バクスター博士です。
    博士はあるとき、ガルバノメーター(微弱電流計)を使って、ドラセナという観葉植物が水をどのように吸い上げるのか観察していました。
    水を吸い上げたときの葉の電導率は上がるはずだったのが、記録計は逆の下降線をたどったのです。
    人間でいえば、ゆったりと気分を落ち着けたくつろいだ状態と同じ反応を示したわけです。

    そこで博士は、くつろいだ状態を示すなら、恐怖を与えたらどうなるだろうと、手っ取り早く葉を燃やしてみたらとそう思った瞬間、メーターの針が勢いよく跳ね上がったのです。
    びっくりした博士は、この体験によって、「植物が人間の感情を読み取る能力を持っている」、という驚愕の事実を発見することになったのです。
    その後の追認テストでは、たまねぎ、レタス、オレンジ、バナナなど25種類以上の植物や果物を使って、同じ結果が得られたことが確認されています。

    バクスターは植物だけではなく、動物の単細胞にも同じ装置を使ってさまざまな実験をおこない、その結果を発表しています。
    つぎはそれらのほんの一部です。
    信じられない方もいらっしゃるかもしれませんが、すべて実験によって証明されている事実です。

    植物には過去を記憶する能力がある
    植物と植物の間、さらに植物と動物の間で、たえず情報通信が行われている
    植物は自分を世話してくれる、あるいは自分に好意を示してくれる人間に特別な感情を抱き、どこにいてもその人の想念を監視している
    植物や動物だけではなく、アメーバ、ゾウリムシ、血液、精子などの単細胞生命体にも意識がある

    これらの実験結果について、バクスター自身はつぎのように述べています。
    「知覚力は細胞レベルで終わっているとは思われない。
    それは分子、原子、さらに原子の構成要素にまで達しているかもしれない。
    これまで常識として、生命なきものとみなされてきたあらゆる種類の存在は、評価しなおされる必要があるだろう」と。
    ようするにバクスターは、細胞レベルに意識があることは確認したが、さらに分子、原子、さらには原子核(陽子と中性子)や電子のレベルにも意識がある可能性があるといっているのです。

    ~後略~

意識が細胞レベルまであることが確認され、さらに細分化されたレベルにも意識がある可能性が高いようです。
改めて何のために意識が形成されるのかを考えると、やはり外圧への適応度を高めるためではないでしょうか。
適応度を高めるためには、電子間、原子間、分子間、細胞間、・・・個体間、集団間というあらゆる位相において、情報(外圧)を共有し、突破可能性に収束していくことが不可欠です。
細分化された“各要素に意識がある”ことよりも、要素間で情報が共有されて“意識が統合されている”ことが、重要なポイントです。

また、外圧への適応のために意識が形成されるのであれば、進化の方向性もランダムではなく、意識のベクトルによって規定されていることも十分に考えられます。
 

たとえ死んでも消えない「つながり」

 投稿者:自適  投稿日:2016年 5月11日(水)07時55分39秒
  たとえ死んでも消えない「つながり」は、どうすれば手に入るのだろうか?

現代の核家族化や少子高齢化、そして宗教観の変化は、「葬送」の在りかたにも少なからず変化を起こしている。江戸時代にキリスト教などの外来宗教の脅威への対策として整備された「檀家制度」(寺請制度)は現代にも受け継がれてはいるものの、人口減少のなかで檀家が減り続けることで、今後は多くの寺院も維持・経営が難しくなってくる。そのため、地域との関わりをどう結びなおすか、改めて問わなければいけない時期に来ているというのである。そしてこれはなにも寺院(仏教)に限ったことではないだろう。

ただ、そういった宗教施設側の葛藤や、個人の宗教観の変化を迎えながらも、一方でやはり「墓」というものに対するこだわりはかなり根強いようだ。たとえば、

「墓がなければ自分の死後の拠りどころがない」

だとか、

「こどもがいないので死後に自分を供養してくれるひとがいないのが不安だ」

などと考えるひともまだ数多くいるので、そのひとつの解決策として、「合祀墓」(共同墓)とか「永代供養墓」などといった方法が提示されている。だがそれでも、

「合祀墓では死後の安らぎが得られないのではないか?」。

といった疑問はなかなか完全には解決しない。それにこういった「墓がきちんと用意できない、そしてそれを供養してくれるひとがいない」という問題は、日本だけでなく世界的にある悩みのようだから、特定の宗教の問題というより、もう少し深いところに根差しているものだと考えたほうがいいのかもしれない。

実際私自身も直接そのような質問を受けたことがあるので、今までも私なりに考えて、「生きた証がないなどと苦しむ必要はない。私たちのすべての経験は記録され、後世に役立てられていく」とか、「男系社会と女系社会。家の名前が途絶えることを過度に恐れる必要はない」などの文章にまとめてみた。そして私たちがよりはっきりと「真実」を理解し、肉体界と霊界を含めた世界の在りかたを真摯に受け止めることができれば、このような悩みはかなり晴れるのではないかとも思う。

しかし、これでもまだ少し言葉として弱いのかもしれない。だとしたら私ももう少し、このことを考えてみようと思う。

まずひとつ今の私に言えることは、こうした問題というのは私にとって、決して他人事ではないということである。なぜなら私にはこどもがいないからだ。そしてこれは今後も、ほぼ100%変わることはない事実である。それに私が死んだときに私の遺骨がどこの墓に埋葬されるかについても、私はよくわかっていないのだ。だから、実際に私の亡骸がどこかの合祀墓に入ったとしても、なんら不思議ではないのである。

だが、私は霊媒師としての経験から、「どこにどう葬られるか」ということそのものは死後の安らぎとまったく無関係であるということを確信している。言い換えると、遺骨の行き先が「合祀墓」でも「家代々の墓」でも、死後しあわせになるひともいれば思い悩むひともいる。これは、より丁重に葬られることが多いからと言って、人間が動物よりも死後にしあわせになるとは限らないという事実にも、如実に現れていると言えるだろう。

では、その死後の安らぎは最終的にはどこで決まるかと言えば、それは「生きかた」である。自分の人生に後悔が多ければ多いほど、ひとは死後思い悩み、後悔が少なければ少ないほど、ひとは死後もしあわせでいられる。だからやはり結局は、「大切なのは『どう弔われるか』でなく、『どう生きるか』だ」ということに尽きるのである。

とはいえ、たとえそれを認めてもらえたとしても、なぜ私たちが「家」とか「こども」とかにどうしてもこだわってしまうのかということをもう少し踏み込んで考えてみる必要もあるだろう。そうすると私なりの答えは、『愛されたという実感』がほしいから」なのではないかと思う。そしてこれは「つながり」とも言えるものだ。

家族とは「つながり」である。そしてこどもとは、他者との究極の「つながり」の結果生まれるものでもある。それは、たとえいずれ変わってしまうとしても、「かつて自分が愛された」という確かな証である。また、たとえお互いの想いが変わってしまっても、「この子は自分がいたから生まれた」ということ、「そしてこの子には『自分の一部』が宿っている」という事実は決して消えない。だからその意味では、「家族」のなかでもこどもが特別な意味を持つのも、確かなのだろうと思う。そして墓とは、「かつて私がこの世界に生きていた」という確かな証であり、それは自分とこの世界との間の、確かな「つながり」の証である。だから、ひとはそれを追い求め、それを得られないことで心から苦しむのだろうと思う。

だがそういった「こども」や「墓」というものは、必ず得られるとは限らない。それはつまり、私たちが求めずにはいられない「愛されたという実感」や「私がこの世界にいたという証」は、必ず得られるとは限らないということだ。そしてそれは、確かに苦しいことだと思う。心からそう思う。

だが私は、あなたのことを決して忘れない。私はあなたのことを大切に思っているし、あなたがここにいたということを、ずっと憶えている。そしてたとえ限られた瞬間でもあなたが私の人生に重なっていたあのかけがえのない時間は、既に私の一部として組み込まれている。それが、あなたの「生きた証」であり、この「つながり」は、決して消えない。たとえあなたがまだそれを「実感」してくれなくても、その事実は変わらない。そしてたとえあなたが私をどう思っていようとも、私の想いは変わらない。だからあなたがそれによって安らぎを実感できるようになるそのときまで、私はずっと、それを届けようと思う。たとえ私が、このからだを離れたとしても。それにそれは私自身のためでもあるのだ。なぜならそうすることで私はそこでずっと、生きていられるのだから。

ようこそ、闇の向こう側へ。
https://yaminomukogawa.wordpress.com/
 

文明の寿命を予測する方法は

 投稿者:自適  投稿日:2015年 8月24日(月)08時13分8秒
  ようこそ、闇の向こう側へ。
闇の向こう側

? 文明の寿命を予測する方法はもうあるが、それで私たちが変われるかは別問題だ
一見「無駄」に見えるもののなかにこそ、私たちを救うカギがある

「なんだ、そんなんじゃいつまで経ってもクリアできないよ。もっと効率よくレベルアップするにはね……」。これは私が先日たまたま耳にしたこどもたちの会話だが、私はこの言葉に心底ぞっとした。ついに、「遊び」にまで「効率」が求められる時代になったのか……。

私たち現生人類は自らの学名を「ホモ・サピエンス」と規定したが、これは「知恵のあるひと」という意味である。つまり、私たち、あるいは学者たちの一部は自らの特質が「他種族よりも知恵がある」ところにあると考えていたのである。しかし、これはなにも唯一絶対の意見ではない。たとえば、オランダの歴史学者であるヨハン・ホイジンガは人類を「ホモ・ルーデンス」だと捉えた。これは「遊びをするひと」という意味である。これは1938年の著書のなかで提唱されたものだが、それよりもずっと古い時代に、日本の『梁塵秘抄』にもこのような歌が遺されている。

    遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

ここで「遊び」とはなんなのかについてあまり厳密な定義をするつもりはないが、私にとっての「遊び」とは、「非効率的で非生産的なもの」であり、だからこそかけがえのない価値のあるものだと考えている。遊んだからといって資産が増えるわけではないし、飢えが満たされるわけでもない。社会的地位が得られるわけでもない。むしろ「遊んでばかりいないで、少しは勉強でもしなさい!」などと言われてしまうことのほうがはるかに多いだろう。もちろん、本来は「遊び」の一種であったはずの「スポーツ」の道を究めて「プロ」になる方々もいるが、その場合それはもはや「仕事」であって「遊び」ではなくなっている。だから、やはり「遊び」とは本質的に「非効率的で非生産的なもの」、言い換えれば「無駄なもの」なのである。しかし、古今東西私たちの世界から「遊び」が消え去ったことはない。なぜ、生存することそのものには直接関係がないように思えるものがこれだけ強く私たちの生活に根ざしているのだろうか? この問いには、現代社会でますます強く求められている「効率」の対極にあるとも言える「遊び」(無駄)がなぜ必要なのかという重要な視点が示唆されている。だが、その「遊び」のなかにまで「効率化」の波が迫っていることが冒頭のこどもたちの会話から垣間見えるのだが、それはもちろん現代の「カネ至上主義」が影響しているのだろう。これは資本主義が現代社会でほとんど絶対的な力を持っていることを考えると当然の帰結とも言えるかもしれないが、もし私たちがこれからも資本主義に促されるまま「効率化」を推し進めていくとしたら、私たちはいずれ必ず自滅していくことになることに、あなたは気付いているだろうか?

資本主義はあらゆるものをカネを介して取引できるようにし、「自然」を「資源」に、「人間」を「人材」と見なし、根本的に変質させた。そしてそのカネは無限に増殖する性質を持っているのに、地球にあるあらゆるものは基本的に有限なのだから、そこには必然的に「競争」が生まれる。するとそこで問題になるのが「無駄」だ。だから私たちは「無駄」を省き、どこまでも「効率化」することを求められる。それは確かにときには技術革新などの好影響ももたらすかもしれない。しかし、あらゆるものを「損得」や「コスト意識」で測るようになればなるほど、私たちの「人間性」(共感性)は破壊され、心のゆとりは失われていく。それが究極に達すると、「あなたを助けてなんの得があるんだ? 自分さえよければいいんだよ」とか「この世は結局カネがすべて」といった思想が蔓延するようになっていくだろう。実際、既に私たちの社会にはそうした考えが出てきつつある。

しかしなかには、私たちに「経済発展」が求められる理由として、「より経済が豊かになることで私たちには『他者を助けるゆとり』が生まれる。そしてそのことが、社会的弱者の方々の生活の質の向上につながり、それがさらなる技術の進歩をもたらす」というような意見を表明するひともいる。これは「富めるひとがより富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」と考える「トリクルダウン理論」の一種とも見えるようなものだが、これが誤りであることはすぐにわかる。なぜなら、先にも書いたように「地球は有限」だからだ。確かに、数十年前、あるいは十数年前と比べても私たちの身の回りの技術は飛躍的と言えるほど進歩したかもしれない。しかし、それで社会的弱者が、というよりも私たちそれぞれが、どれだけしあわせになっただろうか?

それに、たとえばインドや中国のひとびとが全員日本やアメリカと同じような生活水準に至るとしたら、そのときはより強烈な自然破壊が起きることになるだろうし、実際今のような社会体制のなかでそんなことが実現することはあり得ない。ただ一方で、インドや中国、あるいはアフリカのような国々のなかにも、日本やアメリカの平均を遥かに上回る富裕層も存在する。だがこれは当たり前のことだ。なぜなら資本主義とは決して「全員が少しずつ豊かになっていく社会体制」ではなく、「貧富の差(経済格差)が少しずつ拡大していく社会体制」だからだ。そうでなければ、なぜ日本の生活保護受給者の数は「戦後最高」の水準になければいけないのだろうか?

そもそも、「究極的にまで効率化が進んだ社会」とはどのようなものかと言えば、それは「弱者が存在しない社会」である。これはもちろん全員が快適で満ち足りた生活を送れるようになった結果ではなくて、単に「弱者が切り捨てられた結果」である。つまり、私たちがもし「効率」だけを追い求めていくなら、それが行き着くところは「経済的生産性」だけですべてを推し量る社会であるということだ。だから、そこに弱者の生きる居場所はない。これはあらゆる「福祉」が消えていくということでもある。そしてこれは必ずしも「いつか来るかもしれない未来」の話ではない。たとえば見かたによっては「終身雇用制」というのもひとつの「福祉」だった。しかしこれはもはや確実に消えて行きつつある。そして、最終的には労働者は「不満を持たず、なるべく休まず、過酷な環境にも適応でき、いくらでも代えがある存在」であることが望ましいと考えられる。それにそんな存在はもうあるではないか? そう、「ロボット」(機械)だ。現代社会が「効率」を求める限り、ロボットは限りなくひとに代わる存在に近づき、実際に私たちに取って代わるようになるだろう。そして逆に私たちはよりロボットに近づいていく。今あらゆる場所で「人工知能」の研究が注目されているのも、決して偶然ではない。そしてそれがある程度にまで達したとき、そこでは「ロボットが人間を補佐する」のではなく、「人間がロボットを補佐する」世界が実現するのである。

これは今はまだ「極論」にも思えるかもしれない。しかし、ひとつ言えることは、「効率」を求めれば求めるほど、そこには「人間性」が要らなくなるということだ。だから、「効率化」をどこまでも推し進めていく集団が、いずれ必ず自滅する理由はここにあるのである。

ではここで考えてみてほしいのは、「効率化」が「無駄を省くこと」を意味するのだとすれば、逆に私たちの「人間性」は一見「無駄」なもの、つまり「非効率的で非生産的なもの」、ホイジンガの言葉を借りれば「遊び」のなかにあるということなのだ。私たちは今現在も否応なく資本主義のなかに組み込まれていて、それが簡単には変わらないものであるのなら、「カネ」や「効率」のことをまったく考えないことはできない。それに、効率を求めることで既存の技術が進歩することがあるのも確かだし、私たちのいのちに限りがある以上、「ときはカネなり」というのにも一理はあるだろう。だがだからこそ、ときには私たちも「無駄なこと」をしなければならない。大切なひととの他愛のない会話、道行くひととの助け合い、知らない場所への旅、あるいは仮想空間のなかでのゲーム……。こういったものは見かたによってはすべて「無駄な遊び」である。しかしだからこそそこにはかけがえのない価値があるのだ。そして多くのひとが言うように、この「人生」もまた、実際にひとつの「ゲーム」なのである。ただこの人生というゲームが最も素晴らしいのは、そこに「特定の目的」がないからだ。それはそれぞれが自由に設定すればいい。だから、他のひとには無駄に見えることもそのひとにとっては無駄ではないということもたくさんある。そういう意味で言うと、「人生に無駄はない」というのも事実なのだ。これも人生の興味深いところである。そして言うまでもなく、ゲームは楽しんでこそのものだ。「効率よくレベルアップ」する必要などない。急ぐ必要もない。ただたくさんの楽しみを見つければいい。だから私は今、「楽しくないのなら、なにかが間違っている」。いつもそう言っていた師の笑顔を思い出し、改めてその言葉を肝に銘じて生きていこうと、そう思っているのである。

https://yaminomukogawa.wordpress.com/2015/08/23/%E4%B8%80%E8%A6%8B%E3%80%8C%E7%84%A1%E9%A7%84%E3%80%8D%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%81%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1/#more-1869
 

「こども日本学」その1

 投稿者:自適  投稿日:2015年 8月17日(月)07時52分58秒
編集済
  「こども日本学」その1

はじめに「日本人の精神の本流を取り戻せ!」

人間は誰だって平和が好きです。平和は人々の最高の願いです。ところが世界の
実情(じつじょう)は、争いと不安の中にあり、いつも動揺(どうよう)して
います。世界は今、暗い雲に覆(おお)われたまま行き詰まっている状態
(じょうたい)です。

これを取り払って、すべてを照らすのは、日本が神様から与えられた役割です。
それをしなければ国を興(おこ)した意味がなく、日本という国の存在理由を
否定することになります。

さて、最近の国民の意識(いしき)を見渡しますと、この世界的な使命
(しめい)を忘れ、右や左に傾いていて、この先どういう方向に向かうのかよく
分かりません。世の中がとても混乱しており、本当に不安になります。

せっかく義務教育を受けても、卒業してしまうと、熱心に努力し、正直で
正義を尊(たっと)び、優しさと勇気を持って生きようとうとする心を段々
(だんだん)失います。さらに上の学校に進むと、どうして親孝行(おや
こうこう)しなければならないのか分からなくなり、自分だけよければいい、
自分だけ儲(もう)かったらいいというような、自分勝手な考えに陥(おちい)
っていきます。そうして、世のため人のために生きようとする心が失われて
いきました。

また、政治に関心のある者は、誰かを激(はげ)しく攻撃(こうげき)する演説
を聞いたり、厳(きび)しく批判(ひはん)する内容が書いてある雑誌を読ん
だりすると、すっかり気持ちが、そのほうへ動かされてしまいます。やがて何が
善くて何が正しいかの判断(はんだん)がつかなくなり、世を惑(まど)わす
悪人たちは、思うままに力を振るうようになります。

そういうときに大切なことは、一人ひとりが自分の考えを持つということです
が、困ったことにみんな浮ついていて、心を磨き高めるための話は聞こうとして
くれません。それなのに、心に悩みを持たない人は、一人もいないくらい社会が
病んでいます。

ある人は右を振り返り、またある人は左をながめ、キョロキョロするばかりで、
どっしりとした信念(しんねん)というものがありません。本当に残念であり、
堂々(どうどう)とした日本国民は、どこかへ消え去ったのでしょうか。その
原因は、すべての国民に、立派な日本人になるための「精神の本流(ほん
りゅう)」が流れていないことにあります。

これは、日本のあらゆる問題の根本であり、とても重大なことです。もしも、
このまま放っておけば、私たちは日本建国(けんこく)の大きな使命に立つこと
はできません。いつの間にか他国の思う通りに操られ、日本の国も国民の生活も
破壊(はかい)されることになるでしょう。

私はずっと、このことを心配してきました。熱い心で国を救う大思想家が一日
も早く現れて、すべての国民を指導し、進む方向を決めて欲しいと念願
(ねんがん)しています。それは、私一人の願いではないはずです。

しかし、誰かを頼りにしていたら、もう間に合わないところまで危機が迫って
いることを強く感じました。それで、この本を出すことにしました。どうか、
いろいろな人に読んで貰(もら)いたいと思います。

この本を読んだら、今まで分からなかった疑問(ぎもん)が解け、国民が進む
大道(だいどう)が見つかり、世の中が正される。日本国の使命に向かって、
国民が誇りと品格(ひんかく)を取り戻せるようになる。そう願って、心を
込めて書きました。

ただし、その願いを一冊の本にまとめることは簡単ではありません。本書が
そのための入門書となって、信念を持って奮闘する立派な日本人が、一人でも
多く育つことを希望しています。もっと詳しく学びたい人は、自分で調べて
下さるようお願いします。

昭和2年1月25日    著者(林平馬)

林 英臣 e-mail        :soukan@hayashi-hideomi.com
林 英臣 ホームページアドレス :http://www.hayashi-hideomi.com/

ai126167061090.37.access-internet.ne.jp(126.167.61.90)

 

言葉が人生を決める

 投稿者:自適  投稿日:2015年 8月17日(月)07時45分3秒
編集済
  ◆言葉が人生を決める◆

言葉は、単なる意思伝達の手段ではない。言葉は、霊力を持った言霊
(ことだま)なり。言葉それ自体が霊力の固まりとなっているから、
古来これを言霊(ことだま)と呼んできた。

山上憶良は「言霊の幸はふ國(国)」、柿本人麻呂は「言霊の助くる國」と
言った(万葉集)。大和の國は、言霊によって幸せになり、助けられる國なのだ。

寺社でお祈りし、言葉が神仏に届けば、それを聞いた神仏が私たちの幸せを
導き、しっかり守って下さるに違いない。だが、それだけではない。
発する言葉そのものが霊力を発揮し、言霊として直接我々に幸福と守護を
もたらしてくれるのである。

だから、人生を決めるのは言葉なのだ。人間は、言葉に出した通りの運命に
なっていく。現在の自分は、これまで口に出してきた言葉の結晶体だ。
将来の自分は、たった今発した言葉が決めていくことになる。

そして、言葉は民族のDNAなり。言葉によって、その民族の文化や伝統、
思想と生活が伝承されていく。言語が消えれば、その民族は滅びる。
究極の祖國防衛は、大和言葉を基本にした國語教育にかかっているのだ。

林 英臣 e-mail        :soukan@hayashi-hideomi.com
林 英臣 ホームページアドレス :http://www.hayashi-hideomi.com/

ai126167061090.37.access-internet.ne.jp(126.167.61.90)
 

経済危機は、ドミノ倒しのように世界全体に波及するのか

 投稿者:自適  投稿日:2015年 7月15日(水)09時43分44秒
  ◆◆◆経済危機は、ドミノ倒しのように世界全体に波及するのか◆◆◆

◇お金を回すため、成長を止めてはならない…◇

21世紀の今、一国の経済が混乱したら、その国の政治が危機に陥ると共に、
動揺はたちまち他国に波及します。貿易や投資を通じて、互いに相手国を必要
とし合っており、外交上は対立関係にありながら経済では抜き差しならない
という、相互依存の関係が世界全体に出来ているのです。

小国の財政不安が世界経済全体に影響を及ぼしてしまう今、互恵的経済関係が
第一に重視されるようになり、昔に比べて戦争が起き難くなってきました。
中東のような不安定で紛争に利がある地域を除けば、もはや戦争をしても得には
ならず、これを避けようとする意志が世界中に働くようになったのです。

かつては、食料と資源・エネルギーの確保が、国家の存立と国民の生命を守る
基盤でした。今も基本は同じですが、経済活動によるマネーの動きにも重きが
置かれるようになりました。お金を回すため、いかにして成長を止めないよう
図るかに、世界中の指導者が頭を痛めるようになったのです。

このまま経済のグローバル化が絆を深め、世界から永遠に戦争が無くなって
欲しいものですが、その世界経済自体が危なくなってきたのではないかと心配で
なりません。利益が交錯し共存関係が深まった世界経済によって、国々が平和に
まとまるのか、それとも膨張資本主義経済の破綻によって一気に世界が転換する
のかと。

◇境界線に“口利き屋”の議員が割り込んで来る◇

膨張資本主義が破綻を導くかも知れない要因に、各国が抱えている財政赤字が
あります。世界的に財政赤字が膨らむ原因となっているのが、「政治による保護
や手当」を煽る欲望民主主義政治と、それを求める国民心理です。

公的に解決しなければならない課題に対して、なかなか行政の手が回らない。
社会保障によって救うべき問題なのに見捨てられたまま。そういう無情な現実が
ある一方で、幅広く役所が引き受けてしまって行政コストが嵩(かさ)んだり、
自立を促すべき人に自助努力を促せなかったりして、結果的に財政赤字が際限
無く膨らんでいく元になっているという事実もあります。

「生活保護を受けながらパチンコに通う」といった実態は、どの自治体にも
起こり得ることです。本当に行政が対応すべき相手なのか、それとも個人の
自立力に任せればいい程度なのか。その判断は簡単ではないでしょうが、国民の
独立自尊の精神を損ねさせないためにも、もっと政治が毅然とした態度を取ら
ねばならないことは言うまでもないことです。身勝手な有権者に対して、冷静に
叱れる政治家が出て欲しいと。

問題は、その境界線に“口利き屋”の議員が割り込んで来ることです。有権者の
味方のふりをしながら、実は自分の基盤と自派の勢力拡大を目論み、結果として
財政赤字を招いて行政を危機に陥れ、さらに国民の不満を煽っては社会の堕落を
導くというような、半徳議員の存在が問題です。

◇世界経済が戦争を防いでいるという状態も、実は大変危うい◇

日本も、国債を発行して借金を重ねなければ予算が組めない状態が長く続いて
います。個人が借金を減らす場合は、努力して収入を増やし、我慢して支出を
減らせばいいのですが、国家は個人よりも複雑です。

これから益々少子化が進み人口が減っていきますから、経済活動が減衰し、
国家の収入は萎みます。また、いっそうの超高齢化によって社会保障費が
増大します。

高齢社会を迎えた理由は、医療・食事・家屋(冷暖)・衛生状態などが良好に
なったことにあり、それは「人工的な長命化」であるという見解を耳にしま
した。率直に言えば、弱っても死ねない人工長命社会が作られたのだと。

健康だから長生きした昔と違って、今は不健康なまま生き長らえていく時代
です。そういう世の中を作ってきたのが、膨張資本主義や欲望民主主義だった
のではないでしょうか。

もしも国家予算が組めなくなれば、経済が大混乱となり、国への信用が失墜し
ます。経済規模の大きい日本の動揺は、国内だけでなく、直ちに世界に激しい
衝撃を与えます。

自国の混乱が他国に影響を及ぼすのは、どの国にも言えることであり、そうして
みると、相互依存で成り立つ世界経済が戦争を防いでいるという状態も、実は
大変危ういものであることが分かります。相互依存による平和は、裏返せば互い
に危ない状態でもあり、ちょっと揺らげば、ドミノ倒しのように危機が世界全体
に波及する恐れがあるのです。(続く)
☆転送・転載・引用など(悪意・乱用でない限り)大歓迎です。出所(林英臣の
元氣メール)を必ず明記して下さい。あらかじめ当方にご一報下されば嬉しく思
います。
林 英臣 e-mail        :soukan@hayashi-hideomi.com
林 英臣 ホームページアドレス :http://www.hayashi-hideomi.com/
 

新憲法の制定は、いつ頃になるか

 投稿者:自適  投稿日:2015年 7月 2日(木)11時23分40秒
  「提言」◆◆◆新憲法の制定は、いつ頃になるか(中編)◆◆◆

◇日本は、まだ新しい社会秩序(SS)の誕生点に至っていない◇

社会秩序(ソーシャルシステム、略してSS)の盛衰パターンを研究する
文明法則史学では、明治維新(1868)から大東亜戦争敗戦(1945)に
至る約77年間を、一個のSS(近代日本SS)と捉えている。

その後はどうかというと、戦後復興期の上り坂→80年代の絶頂期→平成の
下り坂で一山になっており、ここにもSSに準ずる盛衰があったものと推定
している。但し、SSに必ず発生する文化型のパターン(少年型文化→
青年型文化→壮年型文化→老年型文化)が現れていないこともあり、不完全な
SSという意味で「準SS(戦後準SS)」と呼んでいる。

戦後準SSは、2010年頃に底を打って「過渡期」に入った。リーマン
ショック、尖閣危機の顕在化、東日本大震災などによって、バブル崩壊以降
長く続いた「閉塞の心理」から、「危機の心理」へと社会心理の転換が導かれた
のである。

2015年現在、我が国は、次のSSを誕生させる前の「谷底」に位置している
と分析。日本は、まだ新しいSSの誕生点に至っていないのだ。このまま衰亡
して終わることのないよう、何としても2020~2025年頃には新SSを
スタートさせねばならない。

◇自主憲法が制定されないのは、アメリカ占領下が続いているから◇

戦後は、SSに必ず発生する文化型のパターンが存在していないことからも、
準SSであると述べた。準SSの理由は、それだけではない。戦後我が国は、
政治、外交、経済、金融、情報、軍事など、多くの分野に渡ってアメリカの
指示を仰いできた。

沖縄はもとより、全国各地に130カ所以上の米軍基地があり、首都東京とその
近辺には横田基地、横須賀基地、厚木基地、キャンプ座間などが置かれている。
戦勝国の軍事基地が日本中に設置されたまま、戦後70年(平成27年)が経過
したのである。世界の常識に照らせば、独立した主権国家とは、およそ言い難い
実態であろう。

文化においても、映画やテレビ番組、ファッションなどに、アメリカの影響が
強く日本に及んだ。アメリカを相手に多くの犠牲を払いながら戦ったことを
忘れて、日本人はすっかりアメリカナイズされていったのだ。

100年後の歴史家は、日本の戦後を「アメリカ占領下時代」と呼ぶことに
なるに違いない。

則ち、アメリカに占領され続けていることで、いつの間にか自立を必要としなく
なってしまったという現実が、押し付けられた憲法から脱することが出来ず、
自主憲法制定の気運が盛り上がらない真因となっているのである。まともな
改憲論議が出来ないこと自体が、この国に“真の主権”が存在しないという
事実を如実に物語っていよう。

◇新憲法の完成は、SSの法則からすると2050年あたりか◇

誤解して頂きたくないのだが、筆者は反米を唱えているのではない。今はまだ、
中国の圧力に対抗するためにもアメリカの力は必要だ。しかし、日本がこれから
先、他国に侵略されない自立した国家になるためには、脱米や離米を進めざるを
得ないことになると主張しているのだ。

1776年の独立宣言頃に誕生したアメリカSSは、20世紀に入って最盛期を
迎えたが、ベトナム戦争で疲弊し60年代後半以降衰退期に入った。終了点は、
おそらく2030年前後になると目されている。「終了」を具体的に言えば、
ドルが基軸通貨の地位から転落し、最強の軍事大国の地位を他国に譲り、
世界全体を指導する力を失い、内政が不安定で他国に手が回らなくなるといった
ことであろう。

まだまだアメリカには底力があるが、興隆の勢いは既に中国に移っている。
中国とて、その未来には不安が付きまとい、常に内部崩壊の危機をはらんで
いる。でも、10数億人による巨大な「人民生命力」を侮ってはならない。

衰亡するアメリカと、膨張帝国と化してきた中国。その間にあって、自立した
国家をSSとして建設していくのが、当面の日本の国家目標なのだ。

まず、この5年から10年の間に明らかにしなければならないのが、日本は何を
目指すのかという新SSの基本精神だ。その後、成長するSSの「国民的勢い」
と共に、段階を踏んで制定されていくのが新憲法である。それは、SSの法則
からすると、おそらく2050年あたりの完成になるのではあるまいか。
だから、焦りは禁物なのである。(後編に続く)

◆本メルマガを、お仲間にも是非お勧めください!
「林英臣の元氣メール」のバックナンバー・配信登録・停止はこちら
http://blog.mag2.com/m/log/0000149323/
 

肩の力を抜いて、あるがまま自然に振る舞う

 投稿者:自適  投稿日:2015年 6月11日(木)07時27分14秒
  ★☆林英臣の元氣メール第863号☆★ 雅号は綜観(そうかん)
「肩の力を抜いて、あるがまま自然に振る舞う」
http://blog.mag2.com/m/log/0000149323/

「力を抜けば強くなる~老子に学ぶ柔らかな生き方」その87

◆◆◆肩の力を抜いて、あるがまま自然に振る舞う◆◆◆

◇これでは文明が行き詰まるのも当然◇

奪い合いや対立・闘争に満ちた世の中。これに拍車を掛けたのが欲望民主主義
でした。本来の民主主義は、国民一人ひとりに国家社会に対する責任があると
いうことを示した崇高な思想でしたが、次第に曲解されていきました。
「民」は「主」であるから王様同然に何をしても構わないし、要求すれば何でも
して貰える、というふうに受け止められてしまったのです。

そして、勝手主義の自由と悪平等が、欲望民主主義を“補強”しました。
民主主義は、人間を放縦で自堕落な方向に導き、依頼心・要求心を煽(あお)り
立てて止まない、次元の低い権利思想に堕落したのです。

地球環境を破壊する膨張資本主義と、私利私欲を募らせる欲望民主主義。
そして、人間性を下げてしまう低徳教育。これでは文明が行き詰まるのも当然
です。

勿論、競い合いは必要ですし、生成発展が止まるようでは、自然の法則に反する
ことになります。だが、それは人類進化のためであり、次元の低い叩き合いや、
足の引っ張り合いに終始していて構わないというわけではありません。

◇まず指導者が、無欲・小欲となる◇

さて、意識して為さないという「無為」の段階を通過し、ただ「為(なす)」
だけでいいというレベルにどう入るかです。そのためには、まず指導者が私利に
対して無欲・小欲となり、爪先立って闘争することを止め、肩の力を抜いて、
あるがまま自然に振る舞うようになることが必要です。そうすれば、人民は
指導者を見習って、心を和らげ、意識レベルを高められます。
その結果、世の中は「不争」になると。

争い合いがいかに醜く、それが高じた殺し合いがどれほど惨(むご)いことか。
人類は一日も早く、戦争の要らない世の中を創らねばなりません。老子は、戦争
を必要悪と認めました。しかし、それは仕方なくするものであり、戦争自体を
賛美したり、戦士を過度に英雄視したりすることを戒めました。

誤解して頂きたくないのですが、空想的な平和主義を主張しているのではあり
ません。祖国を守る誇りを捨てよとか、防衛力を持たなくていいなどと言うの
でもありません。

平和には段階があり、今の段階で一方的に戦争放棄を宣言し、軍備を保持しない
と唱えたところで、猛獣や猛禽類を相手に無警戒でいるようなものです。世界
は、まだまだ国家同士が武装して肩をぶつけ合う、陣取り合戦の最中(さなか)
にあるのですから。(続く)
 

未来社会について

 投稿者:  投稿日:2015年 6月 6日(土)01時08分51秒
  未来社会創造にあたって、幾つか役に立つ情報を紹介します

・象形文字の秘密
このブログでは、漢字の成り立ちについて独自の視点から解明しています

・野人エッセイす
このブログで提唱する「協生農法」
これがやがて百億に達する人類を養い、環境問題を解決する鍵となります

・およよと驚く毎日
このブログで紹介されている「原子の竜巻モデル」
これがやがて、現在の物理学を一変することになるでしょう

バックミンスターフラーが発明した「ドームハウス」
この新しい種類の住居を世界に広げることが
資源の問題を解決し、全人類に快適な生活を提供する鍵となります

・自然は脈動する
この本には、自然環境を回復するための重要な情報が書かれています

ダニエル・グリーンバーグが設立した「サドベリー・スクール」
この学校が、これからの教育改革の指針となります

・エマニュエル・トッド 世界の多様性
社会の仕組みを知るためには、この本の知識が必要となります

・パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学
既に絶版ですが、色色なブログに内容が引用されています
それさえ読めば本事体は買うまでもありません

また、霊的事柄について知識を深めるにあたり、以下のブログが参考となります
・序章・言葉とは? - 神言会
・神話の再発見『新事記』
 

霊存在との共通点

 投稿者:自適  投稿日:2015年 5月12日(火)08時44分12秒
  https://yaminomukogawa.wordpress.com/2015/05/09/%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%A9%E3%80%8C%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E7%A7%81/#more-1636

かつてないほど「小さくなった」世界で生きる私たちと、霊存在との共通点とは?

私たちは普段幾重にも折り重なった「社会」のなかで生きていると言える。それは「家族」だったり「国家」だったり「文化圏」だったりするのだが、それは個人にとってはあまりにも大きな「世界」を理解し、そのなかでお互いを助けあって生き抜いていくためのひとつの知恵であるとも言えるだろう。それにある程度昔であれば、自分と違う「社会」で生きるひとびとのことを意識したり、あるいは実際に交流したりするようなことはそれほど多くなかったかもしれない。世界は広く、未知にあふれていた。

しかし、現代はそうではない。「グローバル社会」を生きる私たちは、諸外国で起こる出来事もかつてないほど早く知ることができるし、知ることを求められているとも言える。「地図アプリ」などを遣えば日本にいながらにして外国の風景を楽しむこともできる。メールは基本的に瞬時に相手に届けられるし、自分の知らない言語で書かれた情報でさえ、ある程度までなら機械が翻訳してくれる。

こうしてみると、私たちは「グローバル社会」が願ったように、世界(異なる社会)をつなげ、ある意味で「小さくする」ことに成功したとも言えるだろう。私だってその気になれば、日本にいながらピサの斜塔に最も近いパン屋の名前を調べることだってできる。私たちはそうして、世界の「謎」を少しずつ「知っていること」で埋めることができるようになったのである。

ところで、こうした状況にずっと以前から慣れ親しんできた存在がある。それが「霊存在」である。彼らは行きたいと思ったところにすぐ行くことができる。宇宙から地球の姿を眺めた後、東京の雑踏を観察し、それに飽きたらピラミッドの頂上からの景色を楽しむこともできる。それに本人が望むなら、好きなものを食べながら映画のように世界の歴史を見ることだってできる。まさに霊界ではすべてが「想いのまま」なのである。

そう考えると、霊存在は確かに私たち以上に「自由」なように思えるかもしれないが、私たちも霊存在にそれほど引けを取ってはいないのではないだろうか? もうすでに、世界のほとんどは「手のひらの上」に収まりつつあるとすら言えるのだから。

しかし、そんな私たちが必ずしも現状に満足したり、喜びを感じていたりしているわけではないように、霊存在も自分がそれほど満たされていると感じているわけではない。なぜなら、彼らの体験のすべては、ある意味で「疑似体験」にすぎないからである。私がネット上で歌舞伎町を歩いてみたり、ルーブル美術館の外観を眺めてみたり、あるいは高名な料理店の自慢のひと品の写真を見てみたりしたとしても、それは決して私の「体験」にはならない。それはインターネットでもテレビでも友達のおみやげ話でも同じである。そして、それと同じことが霊存在の経験にも言えるのだ。なぜなら、そこには「体感」や「実感」が絶対的に欠けているからである。

「疑似体験」にまったく意味がないとは言わない。霊存在に楽しみがないとも思わない。疑似体験をすることや誰かの体験を共有することは、「知識」や「共感」、あるいは「想像力」といったものを高めることにもつながるだろう。確かにそれも大切なことではある。だが、それが「自身の体験」でない以上、それはどこまで行っても「二番煎じ」を超えるものにはならないのだ。

だからこそ、霊存在は、そして私たちは、何度も生まれ変わるのである。そしてせっかく生まれてきたのだから、私たちはそれぞれの「体験」をいちばん大切にしたほうがいい。それは別に「歴史に残る偉業を達成する」とか、「秘境を旅する」などといったことに限らない。あなたのその「日常」で見たこと、聴いたこと、感じたことのすべてがなにより貴重なのである。それを得るためにこそ、私たちはこの世界に生まれてきたのだ。私は地球の直径を知っているが、地球のことはまだほとんど知らない。自分の年齢は知っているが、自分のことを知り尽くすまでにはほど遠い。世界がどんなに小さくなったように見えても、そこにはまだまだ多くの「謎」が潜んでいるのである。

だから、私はまだ最期まで生きていたいと思う。そして肉体を離れるときが来たら、私なりのみやげ話を多くの霊存在に語り、ひとしきり想い出にひたり、そして霊存在としての生活を存分に楽しんでから、いずれきっとまた、生まれ変わることだろう。そのときそこにある世界がどんなものであろうと、私が生まれ変わることを止めるとはどうしても考えられない。生きることはときとして苦しいことでもあるが、ここでこうして生きていなければ、私はあなたに逢えなかった。ただそのことを思うだけでも、私はやはり生まれてきてよかったと、そう確信しているのである。
 

この星の神の教え、真実の教えを世界の国々へ発信します。

 投稿者:阿部 正  投稿日:2015年 5月10日(日)13時31分44秒
  自適先生、こんにちは、私は阿部 正と申します。自適先生とは、二度程お逢いした事が御座います。mixiネイムは最初は悟空でした。私は、この星の神の教え、真実の教えを世界の国々へ発信します。学歴も無く英語も全くと言って良いほど分かりませんが世界にまことの花を咲かせたいと思います。頑張りますので宜しくお願い申し上げます。

"The purpose of the human on Earth ."


The evolution of the soul .

Integration .

We do a reincarnation many times.

All Emotion is learned.

Become god mind.

Protects nature.(An eternal system of nature and an eternal system of the soul are the same.)

Learns the truth.(There is a possibility that various sutras are being rewritten by Those in power though it is regrettable.)

The different dimension is learnt.


I thank you.

http://handinhand-123.blogspot.jp/

 

弥勒

 投稿者:haru  投稿日:2015年 5月10日(日)01時18分40秒
  確かに貴方のブログを拝見させていただきました。
間違いないなく、貴方は真実の情報と繋がっているはずです。私の名前は河野美晴です。
まだまだ皆さんが思う様な弥勒ではありませんが、次第に力が強くなっています。私を信じない人は大半ですが、私は既に確信しています。
それは、ここにちゃんと来たからです。
 

復活

 投稿者:自適  投稿日:2015年 1月17日(土)08時34分29秒
  http://www.godbrain.com/index.php

光文書(ヒカリモンジョ)  Vol.425

        復活

この2015年は、地球全体が、または、人間のたましいと呼ぶべきエネルギーのたまが、新しい時代に対応する変化をするはじまりの年になるかもしれません。
すでに、ヨーロッパは過去の植民地支配の報いとでもいうべき、イスラム文化圏との緊張を域内にかかえ込んでいるという状況下にあります。ほんとうの世界支配をしたのは、ヨーロッパというより、イギリスとアメリカのアングロ・サクソンといえるのですが、その英語文明の命脈も、もうすぐ尽きようとしています。なぜ、英語の文明が終わろうとしているのかというと、いまの英語では、あまりに主語を強調するため、自己中心の思考形態しか人間の脳内に生まれようがないからです。
人間と神が一対一で対話する、ひとつの文化形態から、科学というひとつの体系が生まれました。科学というものは、キリスト教の歴史のなかからしか生まれ得ないものであったともいえるわけですが、その科学的なものの考え方にいちばん向いていた言語が、英語だったのかもしれません。英語に代表される西ヨーロッパ系の言語といってもいいのですが、それらはアルファベットです。その言語空間でしか、たとえばノーベル賞に代表される科学的発見をするような人間の脳内システムは生まれようがなかったともいえます。唯一の例外を除いて、それは事実でしょう。その唯一の例外の言語空間が、日本語なのです。
日本語で高等教育を受けた人間が、ノーベル賞級の業績をあげていることは、日本語が科学的思考にふさわしいことの証明になるはずです。
そして、世界の文明の流れにはある種の法則があります。
歴史的役割を担った文明には、やがて、衰退期が訪れるというものです。アングロ・サクソンの大英帝国は、大日本帝国の消滅と連動するかのように、その勢力を失いました。あの戦争の勝者の側にいたにもかかわらずです。その後の世界を二分した、アメリカと旧ソ連邦の世界支配には、敗北したドイツの科学者たちの移住という側面がありました。
戦後70年を経過した現在も、アメリカと旧ソ連の科学技術を引き継いだロシアが、ロケットや宇宙開発の分野で圧倒的な存在なのは、いわば、ドイツの頭脳のおかげなのです。戦争前のこのクニの高等教育では、ドイツ語が重視され、結果として、多少の時間差はあるもののドイツの技術は日本人に移設可能でした。ドイツの発明したジェット機も、ロケットも、あの戦争の末期にまたたく間に日本の技術の手でつくられたという事実は、日本語脳が、こうした科学技術の分野に適合していることを示しているのです。
ドイツ人科学者や技術者の参加なしに、日本人はそれを達成しました。敗戦から70年を経過して、いまの世界に、次の人間の知識の扉を開く、科学や技術の種子は、残されていないように見えますが、それはいまの文明とリンクした情報しか出てこないからにほかなりません。
日本語でものを考え、次の時代の科学的アプローチを思索する人間のなかから、たとえば、アインシュタインを超える知に到るものが生まれるというのが、精神界が私に伝達している予告なのです。
それは、あの戦争で命を捧げた若者たちのたましいを復活させた高次な存在からの伝達です。
日本語を、もっと創造的にするために、精神学というものを地上に降ろしたのも、この地球に用意された壮大なプログラムの一貫なのです。
精神学を学んだ人間は、アメリカの支配の70年を過ぎたこのクニが、自律的に日本語脳の可能性を発見する知への道筋があらかじめ用意されていたことを知っています。
人間の思考は、その人間が存在する意識の階層によって限定されているのであり、邪悪な層にいる人間の頭に、人類全体に貢献するような知のデータが降りることはありません。ただ、マネーをつくったのは人間であり、このマネーの層にアクセスすることは、いかに邪悪な人間であろうと可能なのです。それが、この世の不幸の原因であることに、そろそろ人間は気づくべきなのです。聖書の予告は、やがて、すべてのものは無料となるというもののはずです。マネーと英語の関係を多くの人間が知った時点で、英語脳の時代は終焉を迎えるはずです。マネーにたましいを売った人間に復活はないのですから。
2015年1月16日 積哲夫 記
 

大崩壊後の政治を用意しておかねばならない

 投稿者:自適  投稿日:2014年12月31日(水)12時11分14秒
  林英臣の元氣メール第830号
http://archive.mag2.com/0000149323/index.html

  大崩壊後の政治を用意しておかねばならない

12月25日(木)、自宅事務所の草刈りをしながら下記のことを考えた。
経済という言葉を多用しているが、言いたいことは「文明の転換」である。

◆何事も「無限の成長」はあり得ない。必ずある段階で極まるときが来て、
縮小へ向かうことになる。上り坂と下り坂、これを繰り返しながら「波動進化」
するのが自然の法則である。

文明にも、その法則が働いている。これまでのあらゆる文明に寿命があり、
現代文明もその例外ではない。21世紀の今、現代文明を支えてきた資本主義
経済が限界を迎えているのだと思う。

資本主義経済は実に素晴らしい制度であったが、どんなにいい制度も次第に
老朽化する。この経済による物的成長にも「陽極まって陰に転ずる」ときが
来るのは避けられない。

テレビの特集番組で見たが、アメリカのタバコ産業は、インドネシアで熱心に
市場開拓をした。アメリカ国内ではタバコの健康被害が常識化して売り上げが
伸びない。そこで、人口の多い(2億4千万人)インドネシアに売って挽回
しようとしたのだ。

そのため、インドネシアでは子供のタバコ中毒患者が増えて社会問題となった。
こういう、ただ売れたらいいとする傲慢なやり方が膨張資本主義である。

産業革命と共に急速に発展した資本主義経済は、(その時々の変動を経ながらも)
基本的に右肩上がりの成長を続けてきた。世界中が成長争いの渦に巻き込まれ、
“経済戦争“が展開された。資源を略奪し、市場を奪い合い、環境を破壊。
人々はノルマに神経をすり減らし、あるいはマネーゲームに狂奔した。
そして、世界的に貧富の差が拡がってきて、成功者は一部の富裕者のみになって
きつつあるという。

金銭と数字を成功の尺度とする膨張資本主義に追いまくられる様子は、まるで
ゲージの中で輪を回しているハムスターみたいではないか。自分が回した勢い
で、益々速く回転させねばならなくなる。とうとう最後は、飛び出す以外に
道が無くなくなってしまうのだ。

この膨張資本主義と結びついたのが欲望民主主義であった。政治家は有権者に
媚びを売り、有権者は政治家に何でも要求し、自助や互助を壊すところまで、
手厚いばらまき政治をやってしまった。これら両者によって政治のコストは
青天井に上昇し、財政赤字はどこまでも膨らんでしまったのである。

これを如何にして、本来あるべき人間生活に戻していくか。基本とすべき原理の
キーワードは、共生・循環・公益・地方・年輪・自立・喜働などだろう。

人と自然・人と人の共生を基本に、循環させられない(自然に戻せない)物は
作らず、経済活動は公益を目的とし、地方の経済生態系(地産・地流・地消)を
再生させ、企業の発展は年輪成長を手本とし、個人の自立・家の自立・地域の
自立を重んじつつ、国民は国是(国の志)を受け止めて喜働していくのだ。

現代文明の崩壊は、このままではドミノ倒しのように一気に来る。膨張資本主義
はチャイナの成長でどうにか持っているが、もしもチャイナに内部分裂が起これ
ば、世界同時に「文明の終焉」を迎えることになるかも知れない。文明転換期の
今、アメリカの衰退、ロシアの危機、イスラム勢力の台頭などからも目を離せ
ない。

国内では、たとえば富士山の噴火などによって日本中が混乱し、経済の根本的
意味から変わらざるを得ない事態に備えておく必要がある(金儲けの経済から、
経世済民の経済への変化)。

そのとき、(膨張資本主義と欲望民主主義に立脚した)今の政治が取り組んで
いる経済政策は、その殆どが役に立たなくなる気がする。船が氷山にぶつかろう
としているときに、船内生活向上のための施策で間に合うだろうかと。

旧文明か共生文明か、膨張資本主義か公益志本主義か、欲望民主主義か
高徳民本主義か。間もなく選択のときがやってくる。

一度大崩壊した後の、自立力の高い政治。これを用意しておかねば
ならない。日本を変え、世界を救うために。
 

需要と供給。なぜあなたの欲望は無限に刺激され続けるのか?

 投稿者:礒邉自適  投稿日:2014年 9月18日(木)08時18分21秒
  ? 株式市場は、必ずしもカネの亡者の巣窟とは限らない。未来の風を読む最先端でもある




需要と供給。なぜあなたの欲望は無限に刺激され続けるのか?



「需要と供給」は経済の基礎原理だと考えられている。この「需要」は「必要性」(ニーズ)と言い換えてもいい。ひとびとが求めるものがあり、それを供給するひとがいる。そこで交易が成り立つ。これが最も基本的な理解であり、資本主義もこの考えかたのうえに立っている。原理的な資本主義者が言う「市場に任せる」というのは、需要が多ければ供給も多くなり、需要が少なければ供給も自然と少なくなるので、結果的には最も適切なバランスが保たれるという信頼を表していると言えるだろう。さらに言うと、これは基本的に、「需要が供給を先導する」ということだ。それを求めるひとびとがいるから、それを供給するひとが現れ、より求められているものに近いものを供給できたひとが競争に勝つ。逆に需要がないものを供給しようとしても、それはいずれ必ず淘汰されていく。これはとても自然な捉えかたで、一見反論の余地もないように思える。

だが現代では、必ずしもこのような考えかたでは理解できないことが起きている。現代はもはや需要が供給を先導するのではない。「供給が需要を先導する」のである。なぜあなたの欲望は無限に刺激され続けるのか? なぜあなたはいつまでもどこか満たされない想いを抱えているのか? そのひとつの答えがここにある。「お客様は神様です」と言われたのは過去のことだ。今やその座は「企業」に取って代わられた。現代は「あなたが欲しいものを企業が創る」のではなく、「企業が売りたいものをあなたが欲しがらされている」のである。



資本主義社会は、「成長」を止めた瞬間に崩壊するようにできている。その端的な理由が「金利」制度にあることは以前にも書いた(「資本主義が、いずれ必ず崩壊する最も単純な理由」)が、より根本的には「カネ」そのものの性質上、その動きが止まってしまうと、資本主義社会は途端に破滅の危機に陥ってしまうのである。さらには、資本主義の原理には「資源は無限である」という前提が暗黙の了解として設定されている。その前提はもはや明らかに崩れているのだが、資本主義の黎明期には、「地球の資源が枯渇する」ということなどまったく現実感がなかったのだろう。しかしその根本的な欠陥は、現代資本主義にも受け継がれたままだ。だから、資本主義はどこまでも走り続けなければその存在を維持できない。そのためには、需要が途絶えることをなんとしても避けなければならない。現代における最大の産業のひとつが「広告業」なのも、「プレゼンテーション」がこれほどまでに重要視されるようになったのも、すべてはここに大きな理由がある。顧客は完全に満足させてはならない。今や需要は応えるものではなく、「掘り起こす」べきものなのである。

これはとても冷酷な事実である。だから、テレビの画質はどこまでも向上し、スマートフォンの通信速度はさらに速くなっていく。だが、テレビの画質が2倍向上したからといって、私たちのしあわせが2倍になるわけでないのは明らかだ。しかしそれでも、技術の進化は止まらない。そして私たちはそれを欲しがらされ、消費させられながら、消耗していくのである。

しかしここで不思議なことは、これだけ「些細な」需要を掘り起こすことに躍起になっている企業が、なぜか最も根源的で重要な「需要」には真剣に応えようとしていないかのように見えることだ。アナログテレビをデジタルテレビに置き換え、次には「4Kテレビ」や「8Kテレビ」を売り込もうとするのにはこんなに必死になれるのに、なぜ「食糧自給率」や「エネルギー自給率」は相変わらず低いままなのだろう? なぜ世界各国の「飢餓」や「教育機関の欠如」といった大きな「需要」を後回しにしてまで、より中毒的なゲームの開発に力を注ぐ必要があるのだろう? これはもしかしたら、本当に根源的な「飢え」を残しておくことで、ひとびとを永遠に満足させないようにしているのだろうか? あるいは、「安い労働力」を確保し、「生産性」を高めるためなのだろうか? あるいはひとびとを「格差の嫉妬」のなかで狂わせ、永遠に闘わせるための策略なのだろうか? 私はそれが事実だとは思いたくない。だが、今の状況を冷静に観察すると、これがまともだとは、まったく思えないのである。「賢い」人類のなかで、私しかこんなことに気付いていないはずがない。そうだとしたらなおさら、私は現代の病みの深刻さに、恐怖すら感じてしまうのである。

確かに、私たちの生活には「必需品」というものがある。私ももうインターネットのない生活はできそうもないし、冷蔵庫や洗濯機なしに暮らせる自信はない。だが、掃除機はもうしばらく遣っていない。ほうきとちりとりで充分だと気付いたからだ。スマートフォンも今のところ私にはどうしても必要性を感じられない。しかし、数年前に「電動歯ブラシ」は購入した。それ以来、歯の健康維持にとても役立っている。これは私の例だが、なにが必要でなにが必要でないかはそれぞれ違う。ひとつ言えることは、それは誰かに強制されるものではなく、自分で決めることだということだ。だから、資本主義の波に飲まれて自分を見失いそうになったら、いちど立ち止まって自分にこう問いかけてみてほしい。こんな簡単な問いが、あなたの生きかたを一変させることもあるかもしれない。「これは本当に、あなたに必要なものですか?」。http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/09/16/%e9%9c%80%e8%a6%81%e3%81%a8%e4%be%9b%e7%b5%a6%e3%80%82%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%82%e3%81%aa%e3%81%9f%e3%81%ae%e6%ac%b2%e6%9c%9b%e3%81%af%e7%84%a1%e9%99%90%e3%81%ab%e5%88%ba%e6%bf%80%e3%81%95%e3%82%8c/#more-1273
 

保留コーヒー

 投稿者:礒邉自適  投稿日:2014年 9月12日(金)08時34分5秒
  保留コーヒー。各地で少しずつ拡がりを見せるこの取り組みは、新しい経済の萌芽ではないのか?

http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/09/09/%e4%bf%9d%e7%95%99%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%92%e3%83%bc%e3%80%82%e5%90%84%e5%9c%b0%e3%81%a7%e5%b0%91%e3%81%97%e3%81%9a%e3%81%a4%e6%8b%a1%e3%81%8c%e3%82%8a%e3%82%92%e8%a6%8b%e3%81%9b%e3%82%8b%e3%81%93/#more-1245

なにかをもらったら、相手になにかを返す。これが交易の最も素朴なかたちである。資本主義社会でも、カネを介してこれが日常的に行われているのだが、これは「私/あなた」という2者の関係を基盤にした関係である。だからこれは基本的に、その2者のなかで完結する。

しかし、私たちの関係はこういった2者の関係に留まるものだけではない。2000年に小説が映画化された『Pay It Forward』(邦題は『ペイ・フォワード 可能の王国』)をきっかけに拡がった「ペイ・フォワード」の概念は、他者から受けた厚意(親切)を、その相手(だけ)に返す(=ペイ・バック)のではなく、それをさらに別の他者に対して与えていくというものだ。こうすることでその関係は最初の2者の枠を超え、世界に拡散していくのである。

実はこういったことは私たちの日常にも浸透しつつある。たとえばあなたがあるモノを買ったとき、あなたは販売者に対価を支払う。これで交易を完結させてもなんら問題はないのだが、それをあなたがとても気に入った場合、あなたはそれを「口コミ」として、誰か違うひとに伝えることができるのである。それは基本的に、あなたになにか直接的な利益を与えるわけではない。しかし、今ではインターネット上なども含め、ありとあらゆるモノやサービスの口コミがあふれていて、それは私たちの行動にも、確実に影響を与えているのだ。なぜ私たちはこうした行動を採るのだろう? それは自分が受けた厚意を伝えることで間接的に相手を支援するとともに、周りの方々にも喜びを拡げたいと願うからではないのだろうか?

このような活動や理念が拡がっていくと、それはいずれ私たちの経済の在りかたを大きく変化させる力を持ち得る。それがひとつの究極点に達すると、そこにはもはや「カネ」(貨幣経済)の存在が不要になり、「必要なものは受け取り、余ったものは与える」という「与え合い・助け合いの経済」が生まれるのである。

そういった意味でも私はこうした「ペイ・フォワード」の活動の拡がりに注目しているのだが、先日私は初めて「保留コーヒー」という名の取り組みを知った。これはイタリアのナポリで始まったとされるものなのだが、この理念は世界の有志によって受け継がれ、今では日本でも実践者が現れるようになってきているのだという。これはまだ決して多くのひとに知られてはいないかもしれない。しかし、各地で静かに少しずつ拡がりを見せるこの取り組みは、新しい経済の萌芽とも言えるものだと、私は強く期待しているのである。



「保留コーヒー」の活動や理念については、『保留コーヒージャパン』にまとめられているのだが、こちらでも簡単に説明すると、たとえば私が喫茶店で1杯のコーヒーを注文したとき、2杯分の料金を支払ったとする。するとその余った1杯分の料金で、カネはないがコーヒーを必要としている誰かが、コーヒーを飲めるというわけだ。これはなにもコーヒーに限らない。だから言い換えると、たとえば私が5千円分のサービスを受けたとき、1万円を店に支払うと、その余った5千円が、誰かのために役立てられるということだ。これは「チップ」にも似ているが、この場合はそれが「サービス提供者」ではなく、「見知らぬ他者」に宛てられたものだということだ。だから、これは2者の関係で完結することなく、無限に拡がる可能性を秘めているのである。

それにこの『保留コーヒージャパン』のホームページには「保留コーヒーというのは世界的に自発的に起こっているムーブメントであり、特定の誰かが特定のライセンス等を持つものではありません。このサイトの管理者は完全なる善意の個人であり、保留コーヒーという名称のライセンスを有する者ではありません」と書かれている。つまりこの活動は完全なる「草の根活動」であり、その理念さえ共有されていけば、それぞれの参加者にすら気付かれないままに、拡がっていく可能性すらあるのである。実際、私が見た時点で『保留コーヒージャパン』に「公式に」把握されている加盟店は、神奈川県川崎市の“Trattoria le Sarde”と東京都渋谷の”Aloha Coffee Shibuya”の2店舗だが(「加盟店リスト」より)、私が現時点で確認できた限りでも、北海道夕張市の「支える珈琲 ルーチェ・ソラーレ 夕張」と、北海道帯広市の「立ち喰い処 結 YUI」において同様の活動が実践されていることがわかった(「立ち喰い処 結 YUI」では「ゴチ飯」という名称で行われている)。私がインターネットで調べただけでこうなのだから、実際にはもっと多くの実践者がいてもおかしくないだろう。

私はこれを知って、心から感銘を受けると同時に、やはり人類の未来にはまだ希望があることを確信した。そして私も私にできる活動を続けようと、改めて強く決意したのである。
 

この文章を書いているのは、いったい誰なのか?

 投稿者:自適  投稿日:2014年 8月29日(金)10時47分33秒
     闇の向こう側
http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/08/27/%e3%81%93%e3%81%ae%e6%96%87%e7%ab%a0%e3%82%92%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%af%e3%80%81%e3%81%84%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%84%e8%aa%b0%e3%81%aa%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f/#more-1089


この文章を書いているのは、いったい誰なのか?


猿がシャッターを押した写真の著作権を巡る議論があった。現在のところ、「確かに写真撮影に至るまでの環境作りを行ったのはカメラマンだが、写真の撮影で最も重要な『シャッターを押す』という行動を採ったのは猿なのだから、カメラマンが著作権を主張することはできない」という見解が採用されているが、未だに意見が分かれる問題となっている。

私は今まで、「思考」というものが純粋に自分だけのなかで完結するものではなく、肉体人や霊存在、周囲の環境も含めた多くの「他者」との相互作用によって生まれるものだと言ってきた。しかしだとすれば、今ここにこうやって文章を書いているのは、いったい誰なのか? 私はこれをどこまで「私の文章です」と言っていいのだろうか?



そもそも私がここに書いているのは、私の過去から現在に至る実体験を基にしたものである。そしてその体験は日々積み重なっている。だから、その意味で私の文章は(引用部分を除いては)私自身に由来するもので、誰の真似でもないし、誰に真似できるものでもない。だが、私が現在のような知識を得て、今の私なりの世界観を創り出すことができたのは、私の師や家族、友人、関わってきたひとびとや霊存在といった様々な方々の影響があったからであることは間違いない。それに、私がこのような活動を始めてからというもの、「私の想いを聴いてほしい」とか「このようなことを伝えてほしい」といった要望を霊存在からもさらに頻繁に受けるようになった。そしてそれは、日々の文章にも、確かに反映されているのである。

だとすると、この文章を書いているのはどこまで私だと言えるのだろうか? 逆に言えば、私は「この文章は私が書いたものではありません」と言うべきなのだろうか? しかし、たとえ多くの存在からの影響を受けていようが、その情報を検証し、取捨選択し、自分なりに表現し、限りある時間を費やしてここに書いているのは、やはり私である。言い換えると、ここに書いてあることの文責は、最終的にはすべて私にあるのだ。この文章の内容について質問されたり、場合によっては批判を受けたりした場合に、「これは私の考えではなく、霊存在の◯◯さんの意見に基づいて書いたものなので、意見は◯◯さんに言ってください」などというのがあまりにもおかしいのは明らかである。

だから、やはりその意味でここに書いているのはすべて「私の文章」なのだ。ただ、その背景には多くの「協力者」の存在がある。それにそれは、芸術活動にせよ、日常の行動にせよ、すべてについて言えることでもある。私たちはどんな行動も純粋に自分ひとりで行ってなどいないのである。その関係はまさに「持ちつ持たれつ」であると言っていい。私は私の経験していることを、私なりに表現している。そこには多くの方々から得たものが含まれているが、彼らは自分では表現できない、あるいは自分の責任においては表現したくないものを、私を介して伝えることができるのである。「表現する」ということは、決して安易なことでも、ラクなことでもない。葛藤や苦しみも生み出す。ときには他者と意見が衝突することもある。だがそれでも、黙ってはいられないから、伝えたいから、それが自分にできることであり、したいことであり、喜びであるからそうするのである。これは確かにひとつの「覚悟」であり、それがなければどんな行動も起こすことはできない。だからやはり、これは「私の文章」であり、「私の活動」なのである。

あらゆる行動には責任が伴う。自分の人生の「主体」を持っているのが自分である以上、その責任は最終的にはすべて自分にあると言える。それに、やりたいことがどんなにたくさんあったとしても、人生の時間には限りがあるのだから、そこから選び取るという決断が必要にもなってくる。それは見かたによっては大変でもあるのだが、それこそが喜びのもとでもある。相手がどんなに立派な存在であれ、誰か違うひとの言いなりになっているなら、それは「自分の人生を生きている」とは言えない。だからそこから本当の喜びは生まれないのである。それに、どんなに悩んだ末に決断したとしても、その結果が必ずしも自分の予想していたものになるとも限らない。むしろ、なにかしら予想外のことが起こることのほうがはるかに多い。ただそれがどんなものであれ、その結果は最終的には自分が引き受けなければいけない。だが、だからこそそれがかけがえのない「私の体験」として蓄積され、自分を成長させてくれるのである。

こうしたことを理解してくれているので、私は今のところ誰からも「著作権」を主張されずに済んでいる。だが、やはり私は私に協力してくれる方々すべてに感謝している。彼らがひとりでも欠けていたら、今の私の人生は、まったく違うものになっていただろう。それになにより、私はあなたにも感謝している。こうして私の書いたものを読み、支援してくれるあなたのおかげで、私はこうして書き続けていられるのだから。そして私があなたにできる最大の恩返しは、やはり私がこの活動を続けていくことなのだと思う。それに私自身も今はまだ、私の役割を果たし終えたとは思っていない。これがこれからどのように変化していくのかはわからない。ただ私も無理に気負いすぎることなく、多くの方々の協力を仰ぎながら、その過程を楽しみながら、これからも少しずつ、進んでいこうと思う。そしてそれがもしあなたの喜びに少しでも役立つなら、私にとってそれ以上の喜びはないのである。


 

現在は戦後でも戦前でもない。「経済戦争」の真っ最中だ

 投稿者:自適  投稿日:2014年 8月15日(金)10時25分56秒
  「ようこそ。闇の向こう側へ。」

現在は戦後でも戦前でもない。「経済戦争」の真っ最中だ




1945年以後、私たちは「戦後」の時代を生きているとされてきた。だが、世界では未だに様々な紛争が繰り広げられているし、日本でも周辺国との緊張関係や、国家安全保障を巡る議論の高まりなどを背景に、現在を「戦前」と見なすような意見も提示されている。しかしそもそも、「戦争」とは肉体的交戦による直接的ないのちの奪い合いだけを指すものではない。私たちが戦争を拒絶したいと思うのは、誰も殺したくないし誰にも殺されたくないというだけでなく、いのちが軽々しく失われていくのを見たくないからでもあるはずだ。

しかしそのような目線で見れば、自殺者が世界で年間100万人を超え、治せる病気や飢餓で日々いのちが失われていく現状を「平和」だと言えるはずもないことに気付かされる。現代の「戦争」は、もはや銃火器や剣や戦闘機で行われるものではなくなったかもしれない。だが代わりにもっと容易に国境を越え、ありとあらゆるところで飛び交うものによって行われるものにかたちを変えたに過ぎない。そしてそれはある面ではむしろますます苛烈さを増しているとすら言える。つまり、私たちが真摯に認めなければならないのは、現在は戦後でも戦前でもなく、「経済戦争」の真っ最中だということなのである。



現代の「経済戦争」における最大の武器は核兵器ではない。誰もがもっと容易に扱えるがもっと強力なもの、「カネ」である。そしてその「カネ」を巡ってひとびとは争わされ、その多寡によって厳然とした「格差」が生まれる。あるひとを攻撃したければ、そのカネを奪い取ればいい。このカネの強固な権力は、嗜好品だけでなく、衣食住の「生活必需品」にも及んでいる。つまり私たちは、「生きていくためには闘わなければいけない」という状況にあるのである。これが戦時でなくてなんだというのだろう?

かつて戦時中には様々な「標語」(スローガン)が編み出され、ひとびとの戦意高揚に用いられた。それはかたちを変えただけで、現代でもそこらじゅうで見受けられる。かつて「ぜいたくは敵だ!」と言われていたものは「節制は敵だ!」に変わり、「進め一億消費者だ」と言わんばかりに購買意欲が煽り立てられる。かつては戦地に赴いて戦闘に参加できないひとは生きる価値が低いかのように見なされていたが、今は自力でカネを得られないひとはまるで「非国民」のような扱いを受けてしまうことがある。「ぜいたくは出来ない筈だ」と言われていたのは過去の話で、今では「ぜいたくのひとつも出来ないのか」と蔑まれてしまうのである。これが戦時でなくてなんだというのだろう?

かつては「植民地主義」が採られ、武力によって覇権が競われていたが、今では同じことがカネによって行われるようになった。事実、日本の山林や水源地も各国の富裕層によって着々と買い占められつつあると言われている。これがある臨界点を超え、環境破壊が進めば進むほど、「清潔な環境で充分な食糧を得られるのはカネ持ちだけ」ということにもなりかねない。というより、既にそのような状態が生まれてきているのである。これが戦時でなくてなんだというのだろう?

さらに、私たちは同種族に対してだけでなく、他の生物や地球そのものに対してすら「戦争」を仕掛けている。現在は人類の圧倒的な「戦力」によって絶対的優位を築いているようにも見えるが、これは最終的には必ず破綻する。なぜなら、他の生物や地球を攻撃することは、結局は自分自身を攻撃することを意味するからだ。

これはブラックジョークでもなんでもない。このような状況のなかで、ひとびとは気力を失い、未来に不安を抱きながら生きている。「戦争は嫌だ」と言っている一方で、私たちは今まさに「戦争」に参加させられているのである。今私たちが過去の大戦を振り返ってみたとき、そこは「洗脳」や「不寛容」、そして「熱狂と暴走」があったことを見て取ることができる。しかし、その風潮が強力であればあるほど、「その最中にあるひとびとは、その異様さに気付かない」ものなのである。だから、現在の私たちの状況を冷静に観察してみてほしい。これが戦時でなくて、いったいなんだというのだろう?

私たちは誰も、ひとを傷つけることを望んでいない。自分が傷付けられることも望んでいない。だからこそ私たちは、しっかりと現状を受け入れ、この「最大にして最長の戦争」を、終わらせなければいけないのである。私たちは日々を、現在の社会の枠組みのなかで生きていかなければならない。長らく続いてきたものを、即座に変えられるはずもない。だがまず大切なことは、「自分がどんな状況にあるのか」に気付き、それが望まないものであれば「変えよう」と決意することだ。先の大戦から、私たちの社会は大きく変わった。あのとき誰が、今の社会を想像できただろう? だから、善くも悪くも社会は変わりうるのである。ならば、私たちも自らの意志で少しでも善い方向に変えていこうではないか? それは現在の私たちのためであると同時に、未来の私たちのためでもある。そしてそれこそが、未来のしあわせを願いながら亡くなっていった多くのひとびとに対する、最大の供養にもなるのである。
 

「神」(はたらき)と「神霊」、そして<神>の概念の違いについて

 投稿者:自適  投稿日:2014年 8月14日(木)11時15分6秒
  ようこそ。闇の向こう側へ。

「神」(はたらき)と「神霊」、そして<神>の概念の違いについて



読者のかたから、「神」(はたらき)と「神霊」の概念の違いについてご質問をいただいたので、ここで改めて書いてみたい。なお、以前にも「『神霊』というもの」や「神(はたらき)と私たち」というページでこれらの概念について触れているので、併せて読んでいただければより理解しやすいかと思う。

さて、そもそもこのような区分けは、どこかの宗派や書物に体系的に説明されているものではない。ではなぜわざわざこのような分類を持ち出しているかといえば、第1に現代の私たちに馴染んでいる<神>の概念が、あまりにも混乱していることに理由がある。私たちはともすると「神社」に祀られているような存在を<神>と見なし、それらを崇めたりカネを喜捨したりすればもしかしたら願いを叶えてくれるのではないかと期待してみたり、あるいは願いを叶えてくれないような存在は「御利益がない」などと言って罵倒してみたりする。しかし、「神」とは本来そのような存在ではない。たとえば神社にいるような存在は「神」ではなく「霊」なのだ。このようなことをひとつひとつ理解することから、すべてが始まるのである。



「霊」というのは「エネルギー体」と言い換えてもいい。だから厳密に言えば私たちも「肉体に宿る霊」であるのだが、ここでなにも言わずに「霊」と書いたらそれは「肉体を持たないエネルギー体」のことを言っていると思ってもらえればいい。それをより区別しやすくするために「霊存在」という言葉を遣うこともあるが、これは肉体に宿っている私たちを「肉体人」としたときに対になるものとして言っているものである。

そうすると、「霊存在」と「肉体人」の違いはなんなのかと言えば、それはひとえに「肉体」(からだ)を持っているかどうかという点に尽きる。それが最大の違いであるのだが、逆に言えばそれ以外はまったく変わらない。つまり、霊にも私たちと同様に、様々な価値観や意志を持つ存在がいるのである。

そしてそれは、いわゆる「神社」や「仏閣」に祀られている存在も例外ではない。だからそこにはもちろん私たちのしあわせを願う存在がいる場合もあるが、一方で長らく崇められたことで自分が「特別な存在」になったと思い込み、驕り、傲慢になっている存在がいる場合もあるのだ。神社にいるような霊がすべて善意の存在だと考えるのは、大きな誤りなのである。だから、私はあまり安易に「神社巡り」などをして、個人的な願掛けをして回るようなことは勧めない。そこにいる存在がどんなものかもわからないのに、自分と縁をつないで回ることになるのだから。そして多くの場合、そこに祀られているのはかつて実際に肉体を持って生きていた「人間霊」(人霊)、あるいは人間の想像力によって生み出された存在(観音菩薩など)である。それらは「神」ではないのだ。それに自分にとっての近しさから言えば、先祖や守護霊に想いを向けたほうがよほど通じやすいし、見ず知らずのひとに願われるよりは、相手に喜んでもらえる可能性も高い。そのためにどこか特別な場所に出かける必要もまったくないのである。

では、「神」(はたらき)とはなんなのかと言えば、「喜びを育む存在」であるというのが最も単純な答えである。だから、私たちが認識できる最大の「神」は「宇宙」であると言っていい。あるいは「地球」や「太陽」もそうだし、「水」や「火」といったものもすべて「神」である。それは固定されたものでも、「人格」などの「枠」に囚われるものでもない。それ全体としての「動き・システム・流れ」そのものが「神」なのである。

そして、そのような「神」(はたらき)を支え、私たちの喜びが大きくなることを願っている霊が「神霊」であると言える。これは私たちに「負の念」を注ぎ、それを糧に生きる「曇り」・「穢れ」・「邪」・「魔」といったものの対となる存在である(「『曇り』・『穢れ』・『邪』・『魔』とはなにか」)。だから、「守護霊」も「神霊」の一種だし、神社にいる存在のなかにも「神霊」は存在するということだ。

それでは私たちが山に行ったとき、交流できる存在はなんなのだろうか? 今の私たちはこれを「山の神」と呼んだりする。しかしこれは正確には「山の神霊」、よりわかりやすく言えば「山を愛し、その山に関与しながら私たちのしあわせを願う霊団」なのである。だから、私たちも死後に自分の好きだったものを護る「神霊」になることができるのだ。そして守護霊にしろ誰にしろ、私たちと同じように肉体を持っていた時期があり、今後また生まれ変わって肉体を持つ可能性もあるということなのである。

こうした関係性を理解すると、いずれ「神社」も「仏閣」もすべてそのかたちを変えることになるだろう。それは<神>が消えるということでもある。だが、「神霊」や「神」が消えるわけではない。私たちの想いが通じなくなるわけでもない。むしろ、霊存在と私たちの関係はより深くなり、私たちの不安は消え、複雑な概念はすっきりと整理されるだろう。「真実」とは、実のところそれほど小難しいものではないのだ。

だが、難しいものでないからといって実践するのが簡単だとは限らない。むしろ、単純なものほど見落とされやすく、素朴なものほど誰にも顧みられないとすら言えるのである。だが、いつまでもよくわからないものをよくわからないままにして、混乱させておくのはそろそろやめにしようではないか? 真実を理解したからといってそれをすぐに活かせるとは限らない。私自身もこう言ってはいながらまだまだ未熟である。しかし、まずは知らなければなにも始まらないのである。知ること自体が変化を促す。だからある意味、知ることは怖いことだし、責任も伴うものだ。だが、それを真摯に受け止め、真剣になれば、それはきっと喜びへと活かすことができるのだ。だから私はこれからも、私なりの「真実」を伝えていきたい。そしてそれがもし少しでもあなたの喜びに役立てられたなら、それは私だけでなく、多くの存在の願いが、叶えられたということなのである。

 

ひとを動かすのは理屈よりむしろ感情だ。

 投稿者:自適  投稿日:2014年 6月27日(金)15時43分42秒
  ひとを動かすのは理屈よりむしろ感情だ。私たちはそれほど理性的ではない

闇の向こう側
http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/06/26/%e3%81%b2%e3%81%a8%e3%82%92%e5%8b%95%e3%81%8b%e3%81%99%e3%81%ae%e3%81%af%e7%90%86%e5%b1%88%e3%82%88%e3%82%8a%e3%82%80%e3%81%97%e3%82%8d%e6%84%9f%e6%83%85%e3%81%a0%e3%80%82%e7%a7%81%e3%81%9f%e3%81%a1/#more-841

人間は「理性的な存在」だと言われてきた。この「理性」のはたらきの大きさが、人類と他の生物とを区別する重要な特質だともされている。だが考えてみれば、私たちはいつも理性的に判断して、合理的に行動しているわけではない。実際に、「行動経済学」などの分野でも、私たちがいかに「非合理的」なことを日常的に行っているかが明らかにされてきていて、それに基づいて人間の行動様式を考えるうえでのモデルも変化してきているのである。

では、「理屈」以上に私たちを動かしているものはなにかといえば、それが「感情」である。私たちは理性によって感情を抑制し、冷静な判断をするよう求められるが、それは容易ではない。それに、常に理性の判断が正しく、感情的な判断が誤っているとも限らない。「事実」や「証拠」に基づいた「冷静な」判断が結果的には間違いで、感情に基づいた行動が予想以上に善い結果をもたらすことがある。だから私たちは「感情」を「直感」とも呼び、場合によっては理性以上に重要なものと見なしているのである。



理論的にはとても筋が通っていて、それを支持する事実もあるのにもかかわらず、どうしても感情的に納得できないという場面がある。感情もひとつのエネルギーであるのだが、私たちが普段ひとくちに「自分の感情」と言ってみても、そこには多くの要素が影響し合っている。たとえば「他者」の感情や、「場」の感情というものと、自分の感情は無関係ではない。そしてそこにはそれまでの人生の蓄積によって、そのひとの「傾向・癖」も生まれている。それはときに理性などを容易に上回る、大きな影響力を持つのである。

たとえば「宝くじ」を考えてみよう。宝くじがいかに当選確率が低く、購入金額に対してほとんど見返りが期待できない、「割に合わない」博打であることはよく知られている。しかし、それでもその宝くじを買うひとは大勢いる。確かに、宝くじの収益金の一部が地域に役立てられているなどといった面があるにせよ、それを目的として宝くじを買うひとなどほとんどいないだろう。それなら、直接募金したほうがはるかに有益である。だから、宝くじ購入者は基本的に「カネ持ちになりたい」という目標を目指しているのだが、それが実現する可能性は限りなく低い。それならば、その宝くじを買う資金でなにか美味しいものを食べるとか、もっと有益なことができるのではないか、というのが「理屈」である。だが、今まで何度も宝くじを買ってきたひとにそんなことを言ってみたところで、相手の行動を変えるのは難しい。なにより、相手自身もそんなことは「わかっている」のである。「わかっているけどやめられない」。これが感情の力である。

あるいは、「宗教」を考えてみてもいい。その宗教団体の外にいるひとにとって、高額の寄進をして、実際にはほとんど「御利益」のない活動をさせられているのは不可思議なことに思えるかもしれない。しかし、信者はそれを信じることによって、「感情」を動かされているのである。特に宗教団体がもたらすひとつの効果は、日常ではなかなか他者に明かせない「弱み」を共有できるという点にあると言える。共有することにとって、自分の不安は和らぐ。そして、自信を失い、生きる指針を持てずにいる自分に「教義」という軸を与えてくれ、同じ信者という「仲間」を見出すことができる。これによって心が救われていると感じているひとを、理屈で説得するのはそう容易ではないのである。

それでも、本人が満足し、心から喜びを感じているのなら、それはそれぞれの「生きかた」の問題なので、それはそれでいい。ただ問題なのは、それが明らかに本人や周りのひとびとにとって苦しみとなっているのに、感情の力に呑み込まれてその繰り返しから逃れられなくなってしまっている場合である。たとえば、宝くじや賭博で生活資金もままならなくなっているひともいるし、宗教に「洗脳」されて自分の人生を自分で生きられなくなってしまっているようなひとも、実際に存在するのである。そのようなとき、周りが本人をいくら「理屈」で説得しようとしても、感情で縛られた本人にはその声が届かない。これが、深刻な問題を生み出すのである。

このような問題に対しては、相手の「理性」ではなく「感情」を動かすように試みる以外に方法はない。それがすべての根源だからだ。そしてそれは結局のところ、「愛されたい」「理解されたい」という想いに行き着く。カネがあれば自分を愛してくれる、認めてくれる、という想いがあるから、必要以上のカネを得ようとする(「過ぎたカネを求めてしまうひとが、本当に必要としているものはなんなのか?」)。そこで生まれる「連帯感」が欲しいから、狂信的に宗教に嵌まり込んでしまう。それは誰もが持っている想いなのだが、それが度が過ぎて暴走すると、それは「病み」となって心を蝕んでいくのである。

だから、そんなひとに対して私たちができることは、相手の表面的な行動の愚かさを理屈によって並べ立て、説得しようとすることではなく、そのひとを認め、愛することなのだ。「そんなにお金がなくても、プレゼントをくれなくても、私はあなたを愛しているよ」、「苦しいなら、私にも伝えて。ちゃんと聴きたいと思ってる」。たとえばこんなことを言えただけでも、相手の苦しみをかなり和らげることができる。しかし、実はこのようなことをするのさえ、そう簡単ではないのである。なぜなら私たちは常に時間に追われ、他者と比較され、欲望と劣等感を煽られて、余裕を失っているからである。そしてこれもまた、ある種の「感情」によって動かされているということなのだ。

だからこそ、私たちはまず意識的に自分自身の感情と向き合う時間を持つ必要がある。そして、自分の感情は自分で選ぶことができるというのも事実である。怒りを鎮め、穏やかにいようと強く決意すれば、本当にそうなるのである。自分の感情を喜びに向けること、これはなにより大切な精神修養のひとつであり、意識を向けて続ければ続けるほど、確実に上達していけるのである。また、自分の人生の行く末を静かに想像してみたとき、それが希望に満ちたものだと思えないなら、それは人生の選択が間違っているということなのだ。いくら「理屈」のうえでは満ち足りているように見えても、「感情」が納得していないならその場合正しいのは「感情」(直感)のほうである。

こうして、自分の感情とうまく付き合うことができるようになれば、心に余裕が生まれ、自分にも他者にも暖かい目で向き合うことができるようになるだろう。そしてそれは、あなたの世界そのものを動かすのである。私が霊存在との関わりのなかで生きてこられた大きな要因のひとつは、私の師がとても楽しそうだったからだ。「ただでさえ陰鬱に暮らしているひとびとが多いなかで、なぜこのひとはこんなにも飄々として生きていられるのだろう? もしできるなら、自分もこのように生きてみたい」。そう思えたから、私はなんとか生きてこられた。そして今、私は師には遠く及ばないながらも、少しは人生の愉しみを理解できるようになってきた。だから私はあなたにも、楽しく生きてほしい。今のままの生きかたを続けても行く末が暗く、満足できないとわかっているのなら、その「心の声」をしっかりすくい取って喜びに向かって歩んでいってほしい。どんなに理屈を並べても、他者の生きかたを変えるのは難しいのはわかっているのだが、もし私の言葉がひとつでもあなたの心に届くなら、私にとってそれは、なによりの喜びなのである。
 

私たちは自由を求めながら

 投稿者:自適  投稿日:2014年 5月22日(木)08時58分21秒
編集済
  私たちは自由を求めながら、自由すぎる世界で呻吟している

私たちは、自由になりたいと願う。様々な事情により、望まない環境のなかで生活しているひとにとって、なによりも欲しいのが自由だ。しかし私たちは、もうずっと自由を追い求めてきた。その結果、「文明」を発達させ、「便利な生活」を手に入れてきたはずだ。文明が発達すればするほど、私たちはより豊かで選択肢の多い、愉しい生活を送れるはずだった。それは、ある意味では間違っていない。私たちの生活は、確かに日々「便利」になっている。「自由」になっている。しかし想定外だったのは、より自由になった私たちが、よりしあわせになっていると言えないことである。これは、なにかが間違っていたのだろうか?


現代の日本のような社会では、基本的な「職業選択の自由」がある。だから、あなたが農家のひとり息子だからといって、農業を継ぐ必要性はない。あなたには「教育を受ける権利」もあり、基礎的なことは公的な教育機関がしっかり教えてくれるし、あらゆる「情報」を使いこなせば、独学でかなり高度なことを学ぶこともできる。これだけでも、私たちはとても「自由」である。

また、あなたは自分の住む所も自由に決められる。東京で生まれたからといってそこに住み続ける必要はない。場合によっては国外に住んでもいい。国外に出た後、また戻ってきて、また出て行ってもいい。「別荘」をいくつ持ってもいい。これだけでも、私たちはとても「自由」である。

それにあなたは、好きなひとと一緒にいていい。親や社会から押しつけられることもないし、結婚しなくてもいいし、相手を何度替えてもいい。これだけでも、私たちはとても「自由」である。

こんな「自由」を、私たちはずっと求めてきた。世界的に見れば、この「自由」を得られないでいるひとびとは大勢いる。こんなに「恵まれた」状態を手にできたのは、先人たちからの努力の積み重ねと、ある種の幸運があったからだと言っていい。

さらに言えば、私たち人類は「自殺」することさえもできる。自分のいのちを自ら奪うことができるというのは、ある意味「究極の自由」である。信じられないほどの自由である。そして、実際にその「自由」を行使するひとは、大勢いるのである。

こうしてみると、私たちはまぎれもなく「自由」である。そしてその自由は、今後も拡大されていくだろう。なぜなら、ひとびとがそれを求めるからである。しかし、ここで考えなければいけないのは、「自由の苦しみ」についてである。「自由が拡がる」ということは、「選択肢が増える」ということとほぼ等しい。では、私たちは選択肢が増えるとしあわせになるのだろうか? ある面ではそうである。もし私たちが、食べるものも、職業も、着る服も、一緒にいられるひとも決められていたとしたら? 考えただけでも息苦しい。ひとびとはそれぞれ多様な価値観のなかで生きているので、多くの生きかたがあることは、確かに素晴らしい。それは間違いない。

しかし、問題はこの次だ。「では、私自身はどう生きればいいのか?」この最も素朴で重大な問いに、明快な答えがないのである。これは、自分にしか答えられない。自分がなにが好きなのか、どんなことをしたいのか、それは誰にもわからないからである。そして、世界にはあまりにも多くの「事例」がある。起業して大成功を収めるひともいれば、数カ月で廃業するひともいる。会社勤めで自分を殺し、過労死や鬱に陥るひともいれば、会社集団のなかでこそ生き生きとしているひともいる。また、時間は戻らないので、あの道を選んだ人生と、この道を選んだ人生を、同等に眺めて比較することはできない。他者の助言を受けることはできるが、他者は他者の環境と価値観に基づいているので、あなたが真似をしたとしても同じ結果になるとは限らないし、そもそもまったく同じ条件で真似をすることなどできるはずがない。どこを見回しても、「答え」を与えてくれるひとはいないのである。

無限にも思える選択肢のなかから、あなたは「ひとつ」を選びとり、「たったひとつ」のあなたの人生を創っていかなければならない。自由であるからこそ、自分で選んだからこそ、大きな「重圧」も生まれてしまうのである。「そうそう簡単に環境を変えることなどできない」とひとは悩むが、本当はそうではない。本気になれば、今すぐにでも仕事も辞められるし、住む場所も変えられるし、人間関係も変えられる。ただ、「変えた結果、変える前よりもしあわせになれるかがわからない」から悩むのである。私たちは「自由がない」のではなく、むしろ「自由すぎる」ことによって苦しんでいるのである。

しかし、これを解決する方法はある。「なにが起ころうとも、これが私の人生だ」と受け入れ、他者の選択や他の選択肢に振り回されず、粛々と今の人生を歩んでいくこと、これができればあなたは、ひとつの覚悟のなかで自分の人生を生きることができる。

または、「どんなに環境を変えたとしても、結局はなんとかなる。まずは踏み込んでみよう」と決意し、新しい環境に身を置く手もある。この「なんとかなる」という感覚をしっかり掴んでいれば、あなたはひとつの覚悟のなかで自分の人生を生きることができる。

どちらにしても、必要なのは「決意」と「覚悟」である。それは「自分の人生を自分で引き受けること」である。そしてもうひとつ、「人生に失敗はない」ということも憶えておくといい。なぜ私たちにはこれほどの自由が与えられているのか。それは「身を以て体験するため」である。どの道を選んでもそれぞれの葛藤があるのだが、それは体験したからこそわかることなのだ。そして、私たちはひとつひとつの局面においては「失敗」や「後悔」を感じることがあるのだが、それには「次」がある。今生での反省は、来世に生かせばいいのである。そうしたらいつの日か、その「失敗」すらも新たな気持ちで、笑って振り返られるときが来る。私はこのような「輪廻転生」の仕組みについて、本当に深い愛の産物だとしみじみ感じている。これを受け入れられれば、やはり「人生に失敗はない」のである。

私たちは、未来を見通せない。なにが正しいのかもわからない。私も明日なにが起きるのかもわからないなかで、迷いながら生きている。しかしその「自由な人生」は、他でもなく私たち自身が望んだものなのである。私たちは、望んでこの世に生まれてきた。そしてそれは、間違った選択ではなかった。迷い苦しみながら生きていった先には、きっと喜び多い未来が待っている。私たちが「自由」の力を理解し、本気になることができたら、そんな未来は確実に、創り出していけるのである。


ようこそ。闇の向こう側へ。
http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/05/20/%e7%a7%81%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%af%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%82%92%e6%b1%82%e3%82%81%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%89%e3%80%81%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%99%e3%81%8e%e3%82%8b%e4%b8%96%e7%95%8c%e3%81%a7%e5%91%bb/#more-718
 

「自分がなにから構成されているのか」

 投稿者:自適  投稿日:2014年 4月26日(土)09時52分22秒
  「自分がなにから構成されているのか」を知れば、自分の生きかたも見えてくる
闇の向こう側
http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/04/25/%e3%80%8c%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%8c%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%81%8b%e3%82%89%e6%a7%8b%e6%88%90%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%e3%80%8d%e3%82%92%e7%9f%a5%e3%82%8c%e3%81%b0/#more-669



なにかをよく知りたいと思うなら、よく観察することが必要だ。そして私たちは、喜びを持って生きるためにもまずは「自分自身」をよく知らなくてはいけない。「私とはなにか?」という問いは永遠である。だが完全な答えは出なくても、真剣に自分を「観察」してみると、素朴だが重要なことが見えてくる。だからとりあえずここでは、「私とはなにから構成されているのか?」と考えてみよう。このことはこれからのあなたの生きかたを考えるうえで、意外なほど重要な視点になり得るからである。



私たちは「肉体に宿る霊」である。「ひと」を「霊止」(霊留)と書くのはこの考えかたから来たものだ。このどちらかが欠けても私たちはこの世で活動することができない。だから、私たちを構成しているのは大きく言えば「肉体」と「霊」(精神・魂)であるといえる。

そこからさらに掘り下げていくと、肉体を構成するうえで大きな役割を果たしているのは「食べ物」である。あなたは文字通り「あなたの食べたもの」で成り立っている。それに気付いたら、自分の食べているものに気を遣うことの大切さがわかると思う。「ジャンクフード」の「ジャンク」とは「ごみ」のことである。だから「私はジャンクフードが好きなんですよ~」というのは「私はごみを食べているんですよ~」ということとほぼ等しい。少なくとも自分で「ジャンクフード」だと思えるようなものを食べるのはやめたほうがいい。

かといって、誰もが独力で自給自足の環境を築き上げ、理想的なものを食べられるわけではないのもわかる。私自身もそんなことはできていない。それに有機食品は高価なものが多いので、そうそうすべて揃えるわけにもいかないだろう。それならばせめて、「ゆっくり食べる」ことを心がけるといい。それは自分がなにを食べているのかを意識すること、ひいてはいのちに感謝することにもつながるし、よく噛んで食べることは様々な恩恵がある。たとえば唾液には解毒効果もあることが知られている。「そうは言ってもゆっくり食べる時間がない」と言うのなら、そもそもそんなに食べる必要がないことに気付いてほしい。私たちが3食30品目食べなければ健康を維持できないというのは、率直に言って幻想である。私たちはむしろほとんどが「食べ過ぎ」であり、その結果自ら自分のからだを傷めている。私自身はと言えば基本的に1日1食であるし、完全な菜食ではないが進んで肉類などを摂ることもない。それでもそのせいで健康に重大な問題をきたしたことはないのである。むしろ、ときどき会食などで知らず知らずに普段より多く食べてしまったりすると、その後急激な眠気に襲われて会話が楽しめなくなりそうになり参ってしまう。「消化する」ということはからだにとって大仕事であるということがありありとわかるのである。1日1食にするかどうかは別としても、ひっきりなしに食べていたらからだが休まらないうえに、アタマが回らない。むしろ私個人的には、重要な判断を下すときには意識的に断食するようにしているくらいである。と言っても長くて3日(72時間)程度のものだが、からだの補修にはなるし、余計な欲は考えられなくなるので、自分の「いのちの原点」を意識することができると感じる。あらゆる意味で、「食べ物」があなたにもたらす影響の大きさは計り知れない。

また、私たちの「霊」(精神)という観点から見ると、私たちは絶えず自他の「想念」に影響されて生きている。理想的には他者の想念に流されず、いつもじぶんの「喜び」に軸を置けていればいいのだが、私は未熟者なのでそうはいかない。ただ、自分でもたとえば満員電車に乗っているときと川沿いを散策しているときとでは明らかに「気」が異なることはわかる。つまり、イライラしているひとが多いところでイライラしないのは難しい。だが逆に、穏やかな環境に行けば荒んだ心も確かに癒やされていくのである。「どこへ行ってもあなた自身が変わらない限り根本的な問題解決にはならない」と言うのも一理ある。しかし、環境を変えれば少なからずあなた自身も変わるのである。だからその意味において、どうにもならない八方塞がりに陥ったと感じたときは、住む場所を変えたり職場を変えたりすることを検討するのも価値があると私は思う。「あの場所では生きられなくてもこの場所でなら生きられる」というのは確かにあるのだ。問題なのは世界を狭く捉え、「これができないなら自分はもうダメだ」と思い込んでしまうことだ。それは人間関係などにも言えることである。世界は広い。あなたが思っているよりもずっと広いのだ。そして私たちは、本当に自分にとって喜びであることがそこにあり、本気になれたなら、今とは大きく異なった環境の下でも、意外と生きられるものなのである。このことを、ぜひ考えてみてほしい。

ここまでのことを簡単にまとめるなら、私たちは「食べ物」と「環境」に大きく左右されて生きているということだ。もちろん、実際にはこれ以外にもいろいろな要素が絡み合っているとはいえ、このふたつを見ればそのひとの大まかな「傾向」が読み取れるのも事実だ。だから、自分の生きかたを深く考えてみたいなら、まずはこのふたつを見直してみるのもいいかもしれない。あなたはなにを食べているのか? あなたはどこにいるのか?  それは本当に自分が望むものなのだろうか? よく考えてみてほしい。なにかをよく知りたいと思うなら、よく観察することが必要だ。そしておもしろいことに、「観察する」という行為は実のところ「観察対象そのものを変化させる」という作用があるのである。このことに気付いたとき、あなたは大きな力を手にすることになる。しかしなんのことはない、それはもともと、あなたのなかにあったものなのである。
 

殺人的な情報の波から離れ、自分を取り戻す時間を持つ

 投稿者:自適  投稿日:2014年 4月18日(金)07時01分42秒
  闇の向こう側
http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/04/17/%e6%ae%ba%e4%ba%ba%e7%9a%84%e3%81%aa%e6%83%85%e5%a0%b1%e3%81%ae%e6%b3%a2%e3%81%8b%e3%82%89%e9%9b%a2%e3%82%8c%e3%80%81%e8%87%aa%e5%88%86%e3%82%92%e5%8f%96%e3%82%8a%e6%88%bb%e3%81%99%e6%99%82%e9%96%93/#more-665

殺人的な情報の波から離れ、自分を取り戻す時間を持つ

食べ過ぎは万病の元である。これは多くの方々も認める事実だ。しかし、現代文明に浸る私たちが、「食べ物」以上に過剰に摂取しているものがある。「情報」だ。そして、情報の過剰摂取もまた、明らかに万病の元なのである。

私たちはともすると、「情報は多ければ多いほどいい」と思わされてしまいそうになる。しかし、これには隠された前提がある。「それを自分で吟味できるなら」というものだ。冒頭に倣って食べ物でたとえるなら、「情報をただ受け取る」ということは、「なにを食べているのかもわからないまま、味わう間もなく、ただ口を開けている」というようなものだ。これで病まないほうが不思議だ。しかし実際私たちはこのような状態に置かれている。「情報」の網が世界中に張り巡らされたことで、自分の地域とははるかに離れた場所の「事件」に、私たちは常にこころを揺り動かされる。もちろん、他者の苦しみに思いを馳せ、互いに助け合おうとする態度は素晴らしい。しかし、実際に私たちは、そのような態度で情報に接することができているだろうか? いやむしろ、あらゆることに関心を持たされた結果、感覚は麻痺し、結果的に「あらゆることに無関心」にさせられているのではないだろうか? これはつまり、「心を亡くしてしまった」のであり、その意味で情報社会は、ときとして「殺人的」だと言えるのである。



食べることは重要だが、食べ過ぎは害になる。同じように情報は大切なものだが、扱いに気を付けなければ身を滅ぼす。しかしこのことに気付けば、対処することもできる。食べ過ぎたときには食べる量を減らし、食べ物を吟味するように、情報も量を減らし、吟味する時間を意図的に持てばいいのである。

本来私たちは、みなそれぞれ違った特性を持っていて、「好きなこと」も違う。だからこそ世界は調和できるのだが、私たちは情報社会に踊らされるうちに「画一化」され、一定の「目標」と「理念」を植え付けられてしまっている。だから少しでも独特なことをやろうとすると、大きな「恐怖」に立ち向かわなければならない。それをするのも難儀だが、それを諦めても結局喜びを見失い、病んでいく。こんなことでしあわせを感じられるはずがない。

だからこそ、あなたは意図的に、自分を取り戻す決意を持つ必要がある。自然のなかに入って静かなときを過ごすのもいいだろう。旅に出て、違う環境のなかで自らを相対化し、自分自身を見つめ直すのもいいだろう。情報社会(消費社会=資本社会)の誘導に乗せられて、新しい装飾品を買い漁るのにカネを遣わされるより、このほうがはるかにあなたを活かすことになる。「あなたの人生の主役はあなただ」という言葉があるが、これは必ずしも正確ではない。むしろ、「あなたの人生の『最終責任者』はあなただ」と言いたい。確かに、人生は一筋縄ではいかないし、他者の想いに振り回されることもある。しかしそれでも、あなたの人生がそうなっているのは、最終的にはやはりあなたの責任なのだ。言い換えれば、あなたが本気になれば、あなたは自分が思っているよりもはるかに大きく人生を変えることもできるということだ。これはまぎれもない事実である。

あなたはなにが好きなのだろうか? なにがしたくてこの世界に生まれてきたのだろうか? じっくり自問自答してみてほしい。すぐに答えは出なくても、迷いながら行動しながらではあっても、どうかアタマの片隅に、この問いを置いておいてほしい。そうでなければ、あなたは死んだように生きることになり、いつかは必ず本当に死に、この人生の幕を下ろすことになる。それでも来世があるからいいと言うならそれもそうだ。だが、やはりどうせなら、自分が笑って振り返られる人生を過ごしたいではないか? そのためにこそ、あなたは生まれてきたのだ。だからまずはせめて、そのことを思い出してほしい。そのときから、あなたは本当の意味で生き始め、人生は動き出し、あなたならではの「傑作のドラマ」が展開していくのである。
 

このままグローバル化を進めるなら

 投稿者:自適  投稿日:2014年 4月 9日(水)08時42分42秒
  闇の向こう側

http://yaminomukogawa.wordpress.com/2014/04/08/%e3%81%93%e3%81%ae%e3%81%be%e3%81%be%e3%82%b0%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%90%e3%83%ab%e5%8c%96%e3%82%92%e9%80%b2%e3%82%81%e3%82%8b%e3%81%aa%e3%82%89%e3%80%81%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e3%80%8c%e8%b2%a7/#more-636


このままグローバル化を進めるなら、日本は「貧しさ」を学ぶことになる

日本は第2次世界大戦後、他国も認める脅威の復活を遂げ、世界でも有数の「先進国」と呼ばれるまでになった。その後紆余曲折があるとはいえ、世界的に見れば、日本は経済的にも、治安的にも相当に恵まれた国であると言っていい。ところで2000年代に入った頃から、日本も世界的な(資本主義的)グローバル化の波のなかで生きることが明確になっていった。資本主義の、そしてその核となるカネの「平等性」から見ても、「世界を繋げ、ひとつにする」グローバル化は当然の帰結と言え、日本も黙っていればその流れに巻き込まれるのが必然である。その結果、現代では「国境」の持つ意味はますます小さくなっている。多国籍企業の進出により、日本でもアメリカと同じものが手に入り、関税は撤廃の方向に動き、遠い国の出来事と思っていたものが日本を大きく揺り動かす。

このような状況は、もちろん私たちに多くの利益も与えてくれている。だが、日本がこのままグローバル化を受け入れ、ますます進めていくなら、「必然的に」日本が貧しくなることに、あなたは気付いているだろうか?



グローバル化を考える、ひとつのキーワードは「フラット化」(平準化)である。これは「差がなくなる」ということであり、長期的に見れば私たちの社会は確実にこの方向に動いている。だからこそ世界中で「ケンタッキー」のフライドチキンや「マクドナルド」のチーズバーガーを食べることができる。一方で、グローバル化は「モノ」や「企業」だけでなく、「ひと」の移動をも容易にした。これは格安航空会社(LCC)の台頭に見られるような、娯楽的な旅行が容易になったというだけではなく、「労働者」としての個人の移動が容易になったということでもある。だから、日本でもすでに多くの「外国人労働者」の姿が見られるし、逆に企業は「安い労働者」のいる場所に移動していくことができるのである。これを個人の視点から見れば、自国の物価と比較して、相対的に賃金の高い国で働きたいと思うのは自然だし、企業の視点に立てば、価格競争の障壁となる「人件費」を削るために、安く労働者を雇える方法を採るのも仕方がないところがある。そうしなければ、会社自体が存亡の危機に陥るからである。

ここまで見ていけば、日本が貧しくなる方向に動いていると言うのも現実的な見立てであると思えるのではないだろうか? 正確に言えば「日本」は踏み止まるかもしれないが、「日本人」は貧しくなっていく確率が高い。そもそも世界が「フラット化」していくということは、日本のような「恵まれすぎた国」は相対的に貧しくなる方向に動くということである。ではその分の「富」がどこに行くのかといえば、一部は「発展途上国」の「発展」に作用する(これは非常に資本主義的な言い方であることに注意してほしい)が、実際には「一部の富裕層が、さらに富むため」に作用すると言える。

これは一見「フラット化」と矛盾するようだが、そうではない。グローバル化は長期的にはフラット化につながるが、さらに大局的に見ればそれは「格差の増大」になるのである。それが資本主義の「当然の帰結」なのだから。

これははっきり言って楽しい未来予想図ではない。しかしこの流れは今さら簡単に方向転換できるようなものではない。だから、私たちにできることは、「自分が本当に必要なものはなにか?」と真剣に自問することである。資本主義が極まるとどうなるかを考えるのは必ずしも楽しいことではないが、私たちが気付くべきことは、「資本主義が永遠に続くはずがない」ということと、「資本主義が崩壊しても『世界の終わり』が来るわけではない」ということなのだ。つまり何事にも、「その後」があるのである。それが「未来」だ。そしてその未来は私たちが創っていくものであり、そこにこそ最大の希望がある。何事にも終わりがあるが、終わりは新しい始まりなのだ。このことを忘れないでほしい。この意識は、私たちがこれからの時代を生きていくうえで、大きな支えとなるものなのだから。
 

「5億やるから俺に従え」。霊に取引を持ちかけられたとき

 投稿者:久遠  投稿日:2014年 3月19日(水)16時57分19秒
  闇の向こう側
http://yaminomukogawa.wordpress.com/
より一部引用


信頼できるひとに、「私と一緒に仕事をしよう」と言われたらどうするだろうか? 私なら内容を吟味したうえで、前向きに考えてみたくなる。それでは、相手が初対面の人物ならいかがだろうか? ましてや、初めて出会った霊存在に、「5億やるから俺に従え」と言われたら、あなたなら、どうするだろう?

「なぜこんなことをするんだ?」これが彼の第一声であった。私が多くの霊に関わり、行なっていることが、気に食わないらしかった。私は「相手が喜びに変わるのを見ることが、私の喜びでもあるから」と答えた。会話は続く。「割に合わないだろう?」「この役割を果たすことは、自分の意志で決めたことだし、多くの喜びも得られるよ」。「想念の有り様が変われば、俺たちのエネルギーが小さくなるのは知っているだろう?」「負の念を糧に生きようとするからだよ。素直に喜びを糧に生きるように変わればいい。負のエネルギーは永続しないから、黙っていても少しずつエネルギーは小さくなるし」。「今さら生きかたを変えられるはずがないだろう!」「みんなそう言うけど、本気なら必ず変われる。手助けもできる。そもそも、私に関心を持つということは、どこかで『変わりたい』と思っているからでは?」

ここで彼はギアを入れ替えたらしい。それでこう持ちかけてきた。「5億やるから俺に従え」。「『従う』とはどういうこと?」「霊との関わりを絶て。今までの経験を伝えるのもやめろ。喜びを拡げるような行動は一切取るな」。(続く)
 

量子論」と念子

 投稿者:自適  投稿日:2014年 2月 6日(木)17時10分53秒
  林英臣の元氣メール 「東洋的達人の研究・老子に学ぶ人間の大きさ」その146

◆◆◆「量子論」と念子◆◆◆

◇先祖から自分、自分から子孫へと続く血筋は、生まれ変わりの基本軸◇

守護霊の話ですが、自分を守ってくれる念子の出所(でどころ)として、一番
大切な存在はご先祖だと思います。登山で遭難して死にそうになったとき、
「こっちへ逃げろ」と先祖が囁いてくれ、その誘導で助かった。臨死体験の中、
先祖が「まだ来てはいけない」と止めてくれたお陰で蘇生出来た、などという
不思議な話が数多くあります。

先祖の特質が遺伝によって子孫に受け継がれていくということもあり、先祖の
念子を最も受け易い立場にいるのが子孫なのでしょう。先祖から自分、自分から
子孫へと続いていく血筋(チスヂ)にこそ、生まれ変わりの基本軸があると考え
られます。先祖供養(慰霊と感謝)が大切な所以(ゆえん)です。

いわゆる生まれ変わりについて一言添えておきます。過去生では武士だった
とか、前世では神官だったとかいう話をよく耳にします。筆者は、そういう
話は、念子を通して有り得る現象だと考えています。

簡単に言えば、こういうことです。武士だった人や神官だった人が残した念子に
感応する。それを吸収することによって、自分の中にその人が念子体として
“再現”される。そして、自分の身体を通して“武士”や“神官”が語り出し、
自分の知らないことを喋ることになると。過去生や前世、生まれ変わりなどは、
そういう仕組みで起こっているのではないかと想像します。

過去生を語る例は、圧倒的に子供に多いそうです。子供が話す“生まれる前の
生活や環境”を調べてみたら、本当にその通りだったという話は世界中にある
そうです。でも、“生まれる前の記憶”を話すのは子供の頃までで、大人になると
自然に忘れてしまうとのこと。小さい子供は囚われの心がないから、いろいろな
念子と同調し易いが、成長するに従って知識や分別心が邪魔をして感受性が鈍く
なるということでしょう。

◇非科学と未科学を混同してはいけない◇

念子や念子体という考え方は、現在の科学では証明されていなということは
百も承知しています。妖しげな話と思われた方もいらっしゃることでしょう。

でも筆者は、非科学と未科学を混同してはいけないと思っています。明らかな
迷信は非科学として排除すべきですが、現在の科学で解明されない現象だから
といって、頭ごなしに否定してはいけない。それは、今後の科学の発達を
待つべき未科学であると。

最新科学の一つに、「量子論」があります。この研究が進めば、量子の一つとして
念子が認められる日が来るのではないかと期待しています。量子は、素粒子・
電子・光子など、最も小さな粒子とされているもので、それらは粒子の性質と
波動の性質の両方を持っています。

粒子のようでもあり波動のようでもあるという量子の世界は、これらを観測
しようとすると、観測者の「観測しようという意識」が対象に影響して
しまって、客観的な観測は不可能となります。極めて微細な世界では、意志や
意識が強く働いてしまうというわけです。

また、量子には「量子もつれ」という現象があります。離れている量子同士が、
つながり合って情報を交換するというのです。誰かが発した(残した)念子と
自分(の念子レベル)が同調するというのは、「量子もつれ」ならぬ「念子
もつれ」という作用ではないでしょうか。

遠隔地で起こった出来事を察知するとか、将来を予知するといった能力も
「量子もつれ」で説明可能となるかも知れません。時空を超えて「念子が飛ぶ」
という現象です。達人は、明らかにこの能力を駆使しています。(続く)
 

何かに導かれて喋らされているという感覚

 投稿者:自適  投稿日:2014年 2月 3日(月)16時37分23秒
  林英臣の元氣メール第765号「講義中に起こる、何かに導かれて喋らされているという感覚」

「東洋的達人の研究・老子に学ぶ人間の大きさ」その145

◆◆◆講義中に起こる、何かに導かれて喋らされているという感覚◆◆◆

◇念子が集まると「念子体」になる◇

人にはそれぞれ、その人を守っている「目に見えない力」があるという話が
あります。自分を助けてくれる“不可思議な存在”です。真偽は兎も角、
「自分にも、そういう力があるのだろうか? あるとすれば、一体それは
どういう力なのだろうか?」と、誰だって興味が湧くはずです。

目には見えないが、守ったり導いたりしてくれる力。宗教の世界では、特に
それを守護神や守護霊、指導霊などと呼んでいます。有名な古代ギリシアの
大哲学者であったソクラテスには、ダイモンという守護霊が付いていて危険を
警告してくれたのだそうです。

お化けや悪霊ばかりでなく、この守護霊や指導霊についても、念子で説明出来る
ものと思われます。

既に述べたように、自分の精神レベルを高めますと、それに応じてナホ念子が
どんどん入ってきます。ナホ念子が集まって、ある段階に到達すると、「念子体」
とでも言うべき群れ(むれ)となります。

念子体になれば、念子が個々バラバラの状態であったときの微細な力と違って、
「一定の力」を現すことが可能となります。念子体はその力に応じ、対象となる
人間に対して、実際に補ったり、守ったり、助けたりするようになると。
そういう現象を、守護霊とか指導霊などと呼んできたのではないかと思うの
です。

◇自分の中に、もう一人の自分を持っている状態◇

注意点を一つ述べておきます。念子体は念子の集合体のことですが、念子を
集めて念子体にレベルアップさせる主体は、常に生きている人間(自分)です。
あくまでもこちらの意識の持ちようによって、ナホ念子が集まったりマガ念子が
寄ってきたりするのであり、集めるのは生きている人間の働きによります。人間
を通さなければ、念子は作用せず、従って念子体にもならないというわけです。

人間が念子を集めるというのは、画家を目指すとレオナルド・ダ・ビンチや
ミケランジェロ、ラファエロなどの念子が入ってくる、音楽家を志したら
モーツアルトやベートーベン、ショパンらの念子が引き寄せられてくると
いうようなことです。

修練の積み重ねによって意識を高めていけば、やがて過去の天才たちの
精神レベルに近付きます。彼らの芸術への情熱や、執念によって放たれた
念子と、同調する段階に至ります。

そして、念子をどんどん引き寄せていくと、そこに念子体が生じることになるの
です。素晴らしい素質があり、見事にそれを花開かせた者に対して、天才画家や
天才音楽家の生まれ変わりであるとの称賛が寄せられるのは、そこに必ず念子と
念子体が働いているからであると考えます。

どんな分野であれ、常人では不可能な神業を難なくこなし、高度な創造性を発揮
しているような場合、本人が気付いているかどうかは別にして、何らかの念子体
を宿しているのだろうと推察します。それは、自分の中に、もう一人の自分を
持っているような状態でもあります。

筆者自身、講義をしながら「今、別の自分が話している」と感じることが実際に
あります。講義する自分と、それを聞く自分がおり、何かに導かれて喋らされて
いるという感覚がしばしば起こるのです。筆者に付いている念子体の仕業なの
でしょう。(続く)
 

レンタル掲示板
/15